愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

『モノクロームの煉獄』Rd.3 ~Suum cuique~

 

第1話 via dolorosa

第2話 casus belli 

 

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 進級してから、空気が少しだけ変わった。それは必ずしも、希望に満ちた未来を見つめるきらきらとした命の輝きだけではないことに、私は最早気が付いている。

 能動的に未来を攫もうと足掻く雰囲気が充満している教室を、見るともなく見まわしてみた。就職するのか、受験をするのか。受験をするなら大学を受けるのか、専門学校を目指すのか。大学を受けるなら、学びたい学問を希求しに行くのか、それとも就職に有利なように少しでもランクや聞こえのいいところを目指すのか……


 この世には二種類の人間しかいないのだ。高校三年生である私たちと、その他の世界。ナーバスになる私たちを勇気づけようとする先人が言うように、大局的に見れば、ここでの選択は人生を左右するほどのものではないかもしれない。でも、確実にその後の人生に影響を与える。何らかの形で、善悪は問わず。

 事務所の同僚にして、机を並べる学友である美嘉は寸暇を惜しんで受験勉強をしている。彼女はそういう娘だ。それも、なんのかんのと先延ばしにしてきたみんなが真面目に向き合おうとするよりずっと早くから、シビアに将来を見つめて堅実な設計を志していた。10代の綺麗盛りにちょっと持て囃されたくらいで生きていけるほど人生は短くない、とは、とあるカリスマJKの言。
 私はまだ決めかねている。まだ、まだ。

 

 *

 

 案外、温い空気なのね。


 初めて参加したチェス・コンテストは、これなら模試の会場の方がまだ緊迫感がある、そんな感じで正直なところ拍子抜けした。大学生くらいの年齢層と、おじさんといっていいくらいの人たちが見たところ多い。それがよく言えば和気藹々とした、悪く言えばおよそ勝ち負けを賭けているとは思えない馴れ合いの雰囲気を醸し出す。まるで大学のサークルや碁会所のような、生ぬるい空気だ。
 もちろん、世界大会に派遣される日本代表選手の選考会を兼ねた国内最大のコンテストということで意気込んで来ているプレイヤーも少なからずいるのだろうが、ここは未だグランドマスターのひとりもいない国。高が知れている、ということなのかしらね。


「か・な・で、チャーン!」


 聴き慣れた声、コツコツとヒールの鳴る音、放り投げられるかわいそうなハンドバッグ、衝撃。私は、印象的なフリージアマグノリアの香りとともに、シャンゼリゼ通りよりも広い微笑みを湛えたフレちゃんに抱き締められる。LAZY SUSANのアントニアズ・フラワーズ・オードパルファンだ。母親がパリ近郊の生まれという彼女は、パルファンを綺麗なパリ発音で『パッファン』という。

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「来てくれたんだ、ホントに来てくれたんだー♪」


「行くって、ラインしたじゃない」


「え?……アタシ、日本の機械よくわかんなくてー♪」


 今日は楽しんでいってね、と手を振って駆けていくフレデリカを呆然のうちに見送る。顔が広い彼女は色んな人に声を掛け、また声を掛けられては忙しそうに動き回っていた。
 いくつかの部門があったが、申し込んだのは一番上のクラスだったらしい。フレデリカに「申し込みのときにレーティングを聞かれるから、そしたらアタシにこのクラスに参加するよう言われた、って伝えて」と言われていたのでその通りにしたら、受付のおじいさんには胡乱な目で見られた。その後、テーブルまで案内してくれたお姉さんにはサインをねだられた。

 

 今日の私はツイているのかも。
 私は装甲空母ではないから、処女航海とはいえ、何もできないで沈むわけにはいかないとは思っていた。だけど――
 コンテストも佳境。私たちの座るテーブルの周りには人だかりがあった。最初は速水奏が来ている、というだけで物珍し気に見に来ていた人たちの目の色が変わっている。こうなることをわかっていたかのようにニヤニヤと私と卓を挟んで笑っているのは、前回優勝のIM・宮本フレデリカだった。


 ベスト8戦まで勝ち進んだところで、対戦相手に急病が出た。不戦の追い風も手伝って、あれよあれよという間に私は準決勝まで来てしまった。


「奏ちゃん、やっぱりチェスが抜群に向いてるみたい」


 チェスクロックをいじりながらフレちゃんが言う。


「正直なところ、私も驚いているわ……」


「フレちゃんは、わかってたよ。雰囲気に飲まれないで、実力が出せれば奏ちゃんは相当いいところまで行くって。まして、アイドルで女優さん。パフォーマンスに緊張を引きずらないようにするのも慣れてるだろうし」


 周りの雑音がすっと引いていくような気がしたのは、フレちゃんの真っ直ぐな目に射竦められたように思ったから。私は、今までチェスセットを挟んで向き合った誰とも違う、硬質で濃厚な気配を真顔のフレデリカに感じた。

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(セント・ジョージ・ディフェンスだ……!)

 

 フレデリカは、私をあの映画で私がやった、いわば私のチェス人生の原点ともいえるディフェンスで邀撃することに決めていたらしい。さぁ、どうだといわんばかりに微笑んでこちらを見つめる碧眼を見据えてから、私はナイトに指を掛けた。確かに、馬の嘶きが私の耳には聞こえた。

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(正直、セント・ジョージ・ディフェンスの狙いどころがいまいちわかっていない……でも!)

 

 私の思うように指してみよう、と思った。運に恵まれ、勝ち星争いに本気のフレデリカの胸を借りることができるこの大舞台で、縮こまったような指し方はしたくない。

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 b4を突きだすと、フレデリカは間髪入れずにビショップを引けるだけ引いた。感想戦ではBb6の方が勝ったかもしれない、と言っていたが、その微差をどうにかして咎める術を、私はまだ持っていないと打ちのめされた。

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 間合いをとるような、フレデリカ独特のテイスト。すぐにキャスリングをせず、慎重に駒組みを続ける目前の相手は、正直やりにくいと思った。すべてを受け止めるようでいて、彼女はいつだって相手の攻撃に怯えている、そんな印象を受けた。守りが堅いのではなくて、過剰防衛に近いなにか――

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 フレデリカの長い指が操るナイトが、Bf4に当たってきたとき、頭の中で閃いた。

 

(ここで、Bxh6だ。一見して危険な手、でもきっと盤上最善……!)

 

 フレデリカ=キングに肉薄する魔弾を放った。彼女が築いてきた堅固な城壁に破城槌が刺さったのを観た。

 ギャラリーの溜め息やどよめきが聴こえた。その中でひとり、この未来を予期していたといわんばかりに、フレデリカが口元だけで笑った。

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 捻り出した手が、あと少しだけ届かない――

 私はこの手に唇をかみしめた瞬間に、下手の横好き、趣味の延長としてではなく、チェスを自己実現の術としている者として生まれ変わったのだと思う。

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 国境線沿いに築かれた中央の城壁が堅い。やりたい手はすべて指すことができているのに、受け止めて跳ね返す日本チャンピオンの懐は深かった。でも、簡単に盤は割れない。それこそ、詰められ万に一つの希望が奪われるまで、戦ってみたい。私の血がそう叫んでいた。

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 感想戦でフレデリカが最も誉めてくれたのは、意外にも苦し紛れのこの手だった。曰く、「悪くなったと思うところで、辛抱の手をじっと指せるのは資質」なのだという。彼女の目に映っていた私が、いつの間にか趣味人でなくなっていることに複雑な思いを抱いた。

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 最後に一矢報いようという、露骨な手。だからどう、というわけでもない、Bxd5+を狙うだけの手。記念にチェックを掛けに行くようなものだ。気分は陰惨だった。

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(え……?)

 

 フレデリカの読み落としか、と思った。Bxd5がルークをピンしてしまう。降って湧いたチャンスのように、この時は思った。希望を与えてからそれすら奪う手が、心を折るほどに思い一撃であることを、私はまだ知らなかった。

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 直後に、溺れながらに掴んだ藁、だと思ったものが実は鮫のひれであったことを知った。

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 揚々と相手のルークを破壊しようとして、死が見えた。

 刹那に頭の中が白い閃光で塗り替えられていくようで、私は悄然とした手で今、喉元にナイフを突き立てる相手のビショップを盤から下ろした。

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 後は淡々としたもので、大差を間違えてくれるほどフレデリカは甘くなかった。的確に戦車が整列し、私の陣を焦土にしていく。

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 最も生き永らえる術を計算して、クイーンを犠牲に延命措置を施した。ぐずぐずと、投げられない思いを引き摺るばかりで、詰みまでやりたい、というような最初の威勢はもはやQxf3の一手で粉砕されてしまった。

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 私は瞼を少しだけ痙攣させながら、ルークを引いた。

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「――負けました」

 

 初出場でベスト4は快挙だ、と人々は口々に褒めそやしてくれた。アイドルに話しかけるチャンス、とお世辞を言っていた人もいるだろうけれど、観ていた私のゲームの内容にまで突っ込んだ称賛をくれる人もいて、それは舞台上で演技を褒められるのとはまた違うくすぐったい感触だった。


 けれども、その嬉しさを手放しに噛み締められないのは、それだけフレデリカに負けたのが悔しかったから。カフェでおしゃべりをしながらの遊びなんか目じゃない、自分はこれで生きているんだという彼女の気魄籠ったゲーム。私にチェスを教えてくれた人という以上に、私は同じくチェスをプレイする者として、彼女に勝ちたいと願って、頭を捻り、汗を流し、くらくらするような熱気の中で、彼女に負けた。自分の成果が好成績だというのもわかる。褒められるのも嬉しい。話しかけてくれる人に笑顔で対応するのも慣れたものだ。だけど、きっと部屋にひとりだったら、落ち込む。しばらくは膝を抱えて、動く気力が体のどこからもなくなってしまったかのように項垂れながら、泣いたら立て続けに何かに負けてしまうような気分に浸りつつ、落ち込むだろう。複雑な思いだった。幾重にもこんがらがった感情の糸の中に、ぞくぞくするほどの快感を味わったことも、私をまた惑わせていたことは、私以外に誰も知らない。

 

 *

 

 戦場の中で自分の延長が燃え落ちて往くあの情景。それはまさしくレジナルド・スコットの提唱した『カルタグラ』――たしかに煉獄に違いない。


 あの苦しみの中で活路を見出す、額に脂汗浮く感覚を知ってしまえば、蠅が止まるほどゆっくりと流れていく日常はどこか色彩を欠いてすら見える。あの白鍵と黒鍵が織り紡いでいく複雑な音階が支配する世界で生きていくことは、私の覚悟と想像を超えて苛酷で孤独で、陰惨な選択なのだろう。そうとわかっていても、自分の頭脳をを追い込めるところまで追い込んで新しい手を生み出そうとする創造的な営為の、どこかマゾヒスティックな喜びに目覚めてしまったから――

 私はカフェ・スペースで台本に目を通す彼女を見つけ、呼び掛けた。

 

クラリスさんは、シスター、修道女ってことは……カトリック教会なのよね?」


「そう、ですね。もっとも、修道制度は必ずしもカトリックだけでなく、正教会や古流にもありますが……」

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「そうなんだ、私、てっきり修道女はカトリック、って思ってたわ」


「ふふ、そう捉えている方も、多いでしょうね」

 

 柔らかい雰囲気、というだけでない。何を相談しても、無粋で下世話な好奇心で話を洩らしたりしない、そんな厳かな雰囲気を併せ持っているから、彼女は神の徒として人の話を聴き遂げることに長けているのだ、と金糸の髪を見ながら得心した。彼女は促す。


「それで、今日は?」


「ありがとう、この前は。相談に乗ってもらって」


「私は何もしていませんよ。お話を聞かせてもらっただけです」

 

 私は以前にもこうして、彼女の包容力に甘えたことがある。そのときも、取り留めのない私の話を適切な相槌を挟んで聴き、話すうちに考えが私の中で纏まって行くように導いてくれた。


「今日は聞きたいことと、伝えたいことがあって」


「はて。私にお答えできることなら、よいのですが……」


「ねぇ、クラリスさん。『煉獄』って、どんなところ?」


 虚を突かれたような顔をするクラリスさん。


「なるほど、それで先ほど私にカトリックか、と問うたのですね」


「えぇ、まぁ」

 

 表情が読み取れないほどに静かな顔つきで、糸のような優し気な目を開いて、彼女は私を覗き込むように見た。


「『自分の内なる、神と異質なものを清めるための場所』です」


「清める……」


「天国に赴き、主の喜びに預かるため聖性を得る場所、ということもできるでしょう」


 すっと脳の温度が下がった気がした。


「ありがとう。私、決めたの。あのね――」

 

 優しく私の右手を、両手で包み込むクラリスさん。


「私も神の下僕。皆まで言わずとも、そのお顔を観れば、分かりますよ。私は、貴女がどこにいようと、貴女のために祈ります――」

 

 彼女の手は、信じられない程に柔らかく、ひんやりとしていて心地よかった。

 

「貴女に主と、アビラの聖女テレサの守護がありますように」

 

 

「プロデューサーさん、聞いてもらいたい話があるの」


「速水さん」


 私は、プロデューサーが書類仕事をひと段落させ、コーヒーか何かを淹れに立ち上がりシンクへ向かうところを呼び止めた。


「少し、いいかしら」


「――私の席で、待っていてください。すぐ戻ります」


 そういうと彼は、自分のマグカップではなく、逆さに掛けられていた新しいカップを手に取り、中を覗いてから濯ぎだした。私はそれに視線を投げかけてから、言われた通りに、彼の席で待つことにした。


「お待たせしました」


 数分で席に戻ってきた彼は、それぞれの手に湯気立ち上るマグカップを手にしていた。私の前に差し出されたのは、彼が濯いでいたあの白いカップ。


「ありがとう……」


「千川さんはお帰りになったので、そちらに掛けてください」


 大きな掌に指し示された、彼の隣のデスク。私は頷き、その椅子を引き、可愛らしいフリルがあしらわれたクッションを上げて腰を下ろしかけ、下がった目線で彼の机の上にあるものに気が付いた。


「あ、あら?それは――」


「あぁ、取材許可の際にゲラを見せてはいただいてたのですが、見かけたもので、つい。改めて、このたびはおめでとうございます」


 悪戯でも見つかったみたいに、困ったような顔で首に手を当てるプロデューサー。彼の机の上にあったのは、雑誌のアーティクルを丁寧に切り抜いたものだった。映っているのは、私。スカウトの声を掛けて警察を呼ばれたことがあるほどに強面な彼が、ちまちまと鋏でスクラップを作っているのを想像して、頬筋とともに少しだけ緊張がほぐれた。


「それで、お話がある、というのは……」


「えぇ、そのことなのだけれど――」

 

(To Be Continued...)