愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

May the Magic of Halloween be with you! -1-

  

 遠慮がちな様子で、しかし決然と飛び込んでくる馬の嘶きが聞こえるようだった。

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 4. Nxe5!?

 14歳以下のアイドルたちがチェスを指す企画、『U-14 Halloween Championship』。あの人も、文香も、酔狂なものを考えたものだ、と速水奏は肩を竦めると、またモニターに目を戻す。

 幸いにも、ここはアイドル・プロダクション。部屋も、カメラも、用意することは容易い。

 だが、この人気はどうだろう。動画サイトを通しての中継は、リアルタイムで観戦者の数がわかり、コメントが付いて流れるようになっている。ここまで見通していたというのは有能を通り越しもはや呆れる思いだ。

 

(いや、違うかもしれない。企画だけではない。アイドルたちの一生懸命な姿が望まれた結果なのかも……ね)

 

 奏が見つめるモニターに映し出されるのは、チェス・ボードを挟んで正対する二人の少女。そして、白番・白坂小梅が放った奇手を期に、コメントと観戦者の数が跳ね上がった。スイス・ドローを採用した、お遊びとはいえ大会形式のこの企画。すべてを占う船出の第1ラウンドに小梅が持ってきた作戦は――

 

「ハロウィン・ギャンビット、か……」

 

 もうすぐ、秋が終わるのだ。

 

 

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 暗くした部屋に浮かび上がるモニター。そこには、DVDの再生メニューが表示されている。

 今しがた観終わった映画の余韻を引きずるように、そのメニューに視線を置いたまま、ソファに並んで腰かけた二人の少女が話している。

 

「んー、なんだか滅茶苦茶で後味が悪かったなぁ。ホラーって言っても、小梅の趣味じゃあまりなかったかな?その割には、結構面白そうに見てたけどさ」

 

「そ、そんなことない、よ?……チェスのシーンとか、よかった……」

 

「あー、そうか?そうかぁ……お洒落感はあったけど、アタシにはよくわかんなかったなぁ。小梅は何が気に入った?」

 

「うーん……ひ、人の心を閉じ込めちゃうくらいのゲームなんだよね、チェス……どんなゲームなんだろうって……」

 

「ほー……そういや、事務所にチェスにハマってるのがいたな……やってみる?」

 

「……や、やってみたい!」

 

「こんど話してみようかね」

 

「りょ、涼さんも、やる?」

 

「うーん、考えておくよ」

 

 少女は立ち上がってディスクを抜出すとケースにしまい、次のディスクを取り出した。

 

 

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 文庫から栞を抜き、軽い音を立てて閉じながらると、少女の長い前髪が少しだけ浮き上がった。

 

「チェス、をやってみたい……ですか?」

 

「あぁ、いや、アタシじゃないんだ。小梅がさ。この前チェスの出てくる映画を観て、痛く感動したみたいでさ」

 

「それ、ホラー?」

 

 カップを持つ左手の、立てられた小指を向けるように、隣に座っていた少女が訊ねた。二人は涼の言う『チェスにハマっているの』の中でも指折りの手練れである。

 

「は、はい……『チェックメイト』っていう、フランスの……」

 

「へぇ……チェスが出てくるホラー……気になるわ。今度観てみようかしら」

 

「じゃ、じゃあ、こんど持ってきます……!」

 

 奏はマグカップをテーブルに置くと、逆の手の人差し指を細い顎に当てる。少し勢い込んで答える小梅に、奏は優しく微笑んだ。

 

奏「あら、ホント?ありがとう」

 

「……え、えへへ……誰かと、映画の話ができるのは嬉しいし……」

 

 その様子を目を笑わせながら観ていた涼は、話を纏めるように言った。軽く打ち鳴らした手をそのままに、拝むようなふりをして見せる。 

 

「そんなわけで、さ。ふたりは最近ほかのアイドルにもチェスを教えてるみたいだし、頼めたらなあと思ったんだ」

 

「いいわよ。ね、文香?」

 

「……私も、ぜひ」

 

 即答と快諾。未知なるゲームへの関心と、気に入りの娯楽を共有する愉しみが交錯した。

 

「ホントか、良かったなぁ、小梅!……アタシは今日レコだからこの後行かないといけないんだけど、じゃ、また。……大丈夫だよな、小梅?」

 

「……う、うん……」

 

「大丈夫よ、取って食いやしないわ。私は」

 

「「……え?」」

 

「まぁ、じゃ、よろしく頼むよ。今日はありがとう」

 

「なんてことないわ。レコーディング、いってらっしゃい」

 

 ゆるゆると手を振り涼を見送ると、さっそく手帳を出して三人は予定を段取りし始めた――

 

 

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「チェスボードは……必ず向かって右の端に白のマスが来るように置きます」

 

「み、右の端……こう、かな」

 

「そうです。では、今度はピース、駒を並べてみましょうか――」

 

 小梅は肩の後ろに感じる柔らかい温もりとふわりと香るシャンプーの匂い、そしてときどき触れる文香の冷たい手と、目の前に広がる精緻なモノクロームの彫刻群に、自分が二段飛ばしで大人になっていく心持ちがした。

 

 * 

 

「チェスにはいくつか、特殊なルールがあるのだけど……これはそのひとつ。キャスリングって言うわ。動かしてごらん」

 

「キャ、キャスリング……こう?」

 

「そうよ。キングの側でやるならそう、そして」

 

 印象よりも大きい奏の右手が、小梅の対面で二つのピースを踊るように操る。

 

「クイーン側でやるなら、こう。やってみて」

 

 見様見まねで、奏と線対称になるようにピースを動かす小梅。

 

「……こう?」

 

「そう。それが、キャスリング。もう一度やってみましょうか。ここで気をつけなきゃいけないのは、必ずキングを先に動かさないといけないってことで――」

 

 自分の指で弄り、動かす小さな人形は、小梅にとって化粧品や香水瓶のような、自分の踵を少しだけ高めてくれる秘密のアイテムのようだった。

 

 *

 

「小梅ちゃんはどーしてその手が良いと思ったの?」

 

 対面に座る宮本フレデリカが覗き込むようにして小梅に訊ねる。両の肘をテーブルにつき、手のひらに顎を載せるようにして、にこにこと微笑むフレデリカ。

 

「え、えと、これはここのポーンが、前に出るから……ま、真ん中から、前に出て行くのがまず大事だって……」

 

 考え考え、小梅はいう。目をつぶって何度も頷くフレデリカは楽しそうだ。

 

「なーるほど!センターをね、コントロールするんだね!その考え方、ばっちり!……でも、もっといい手はないかな?あるいは……悪くならない手!」

 

「悪くならない……?」

 

 この人は本当に、楽しそうにチェスをプレイする、と小梅は憧れにも近い思いを持って目の前のフレデリカを見た。

 

「たとえば……取り返せずピースを取られちゃったら、一方的な損だよね?」

 

 小梅は言われて、慌てたようにチェスボードに目を凝らす。

 

「あ……」

 

 そして、小梅は今まさにフレデリカのポーンに取られようとしている自分のナイトを指さし、困ったように顔をあげてフレデリカを見つめた。

 フレデリカは、ふんわりと笑った。

 

 

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「ああ、この前はありがとう。あれから、小梅はどうだ?」

 

 部屋に入ってきた奏を見つけ、涼は声をかける。奏は制服姿で、涼はTシャツにスウェットという出で立ちだ。汗を掻いていないところから、これからレッスンなのだろうと奏は踏んだ。

 

「貴女、小梅ちゃんのお母さんなの?」

 

 揶揄う奏とまゆ尻を下げる涼の様子を見ながら、寛いでいた文香が奏の背中越しにいった。

 

「……吞み込みも早いですし、頑張っていると思います。ただ……」

 

「ただ?」

 

「私のこと、呼んだ?」ガチャ バタン

 

「呼んでないぞ」

 

「そっかー」バタン ガチャ

 

「実戦経験が思うように積めないっていうか、相手がいないのよね」

 

 学生鞄をソファに置きながら奏が言う。涼からは彼女の髪の分け目しか見えなかった。

 

「相手?」

 

「……そうですね、セオリーを教えることも、指導対局もできるのですが、チェスは将棋と違って基本的にはあまり駒を落として対戦する、というのをしないゲームなので……」

 

「ふーん、ゲームの内容はよくわからないけど、つまり同じくらいのレベルの相手と切磋琢磨できないってことで、いいのかな?」

 

「そうね」

 

「……それは、どうすればいい?」

 

 眉根を顰めて聴く涼には、人には言えないシリアスな秘密があった。チェスにどんどん興味を示していく小梅を見ているうちに、自分も彼女とプレイをしてあげられないか、とこのゲームのルールから覚えてみようとしたのだ。だが、どうにも肌が合わないものがこの世にはあって、それは意外と身近にあるのだと涼は痛感していた。

 

「同じくらいのライバルがいるのが一番いいのでしょうが……年少の子たちで、彼女が始めたのを皮切りに何人かチェスを始めた子はいますが、スタートも呑み込みも早い分、まだまだ相手がいない感じで……」

 

「あとはチェスクラブ、とかかしら」

 

「碁会所みたいな?」

  

「ふふ、そんなものかな。私たちはもっぱらネットだけど、近所にもあるじゃない」

 

 絶句し固まる文香と、くすぐったそうな笑い声を上げる奏。

 

「なるほど、ありがとう」

 

 二人は無言のうちに、遠ざかる涼の足音を聞いた。ドアが閉まる音が部屋に遠慮がちに響いた後、奏がポツリという。

 

「……連れていくのに、マクドナルド1回賭けるわ」

 

「……では、私もそれで……」

 

「……」

 

「「ふふふっ」」

 

 顔を見合わせて、どちらからともなく二人は笑った。

 

 

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「ねぇねぇ、フレデリカとハロウィンって似てると思わない?」

 

 滑らせるようにルークを動かすフレデリカのネイルには、可愛らしくデフォルメされたゴーストが遊んでいる。

 

「……はて」

 

 フレデリカの指が黒のルークから離れると同時に自分のキングを逃がす文香。その様子を、食い入るように文香の横に立った小梅が見つめている。

 

「えー!だってフレデリカも五文字変えればハロウィンだよ?」

 

 ポーンを突き出すと、フレデリカは右手を開いて文香に示した。長い指が少し反り返る。

 

「原形」

 

 くるりと手のひらを返し自分の方に向けると、小指から順番にリズミカルに数度、指を折った後にフレデリカは小梅の方を向いた。

 

「小梅ちゃんはどう思う?」

 

「え、えと……に、似てる?」

 

 小梅は話を聞いていなかった。

 

「ほう、愛いやつ~♪では、キミにはこれが終わったら、フレデリカ・ギャンビットを授けよう。トリック・オア・オランジェット♪」

 

 小梅は話を何も聞いていなかったのである。

 

「は、ははー……?」

 

 戸惑う彼女を尻目にふたりは素早く二度、三度と手とピースを動かし、どんどんボードの上からピースを下すと、軽く拳を打ち合わせたのちに右手を握り合った。そして何事もなかったかのようにピースは初期配置へと戻っていく。

 ナイトの向きを調節しながら、文香が言った。

 

「ハロウィン・ギャンビットですか……いくら私でも、フレデリカさんにピースダウンで勝つのは厳しいのでは……?」

 

「は、ハロウィン・ギャンビット……!?」キラキラ

 

 これが白坂小梅が、その運命的な言葉を初めて耳にした瞬間であった。

 

「そ、ハロウィン」

 

 そういうと二人は無造作にも見えるほどの速さでピースを動かす。

 

「こうやって出た手が、相手をびっくりさせるからハロウィン・ギャンビット、だよ」

 

 白いピースを操る文香が、『有り得ない』ような手を指した。

 

「え……え?!……え?」

 

 文香とフレデリカは視線を絡み合わせると、同時に口角を上げた。悪戯っぽく笑いながら、更にゲームを進めていく。

 早々のピースダウンにも関わらず、黒のピースはどんどん自陣に押し戻されていく。その様子は、切り込み隊長となって死んでいった騎士の亡霊が相手に呪いをかけたかのようで、小梅は瞬時にこのホラーなオープニングと、ギャンビットを仕掛けた鷺沢文香の熟達したスリラーな技に魅せられていたのである。

 二人にこの世にも奇妙なラインの種明かしを受けたとき、思えば小梅はもう騎士の霊に憑りつかれていた。

 

「そ、それ、教えてほしい……!」

 

 白坂小梅はその名前に惹かれ、また、なんとも大胆なナイト・エクスチェンジから始まるそのラインに憧れた。そして彼女は密か自分こそ、このオープニングを指さねばならないのじゃないかと、少女特有の強迫観念にも似た思いを抱きすらしていたのだ。

 

「あまり実戦的とは言えませんが……」

 

 そう言いつつ立ち上がり、椅子に座るよう手で示す文香。促されるまま座ると、ピースを並べ直してフレデリカは小梅に笑いかけた。

 

「楽しければいいんじゃないかな~」

 

 今日も、フレデリカはふんわりと笑った。  

 

 

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「まず、4手目Nxe5がダメだったね」

 

 そう、目の前に座る男は悦に入った様子で歌うように言った。

 

「こんな序盤にナイトをタダ捨てするなんて、まともじゃないよ。ここからはずっと有利だと思ってた。……まぁ、キミはチェスを始めて日が浅いのかもしれないが、こんな手はないって覚えといた方がいい」

 

 上機嫌で捲くし立てていく男に比して、白坂小梅はしょげ返っている。その撫で肩が心持ち普段よりも悄然としているのを、壁を背に立つ松永涼は少し気掛かりな面持ちで見遣った。

 

 二人の休みの予定があった日の夕、涼と小梅は事務所から程近い場所にあると調べたチェス・クラブの戸を叩いた。時間単価いくら、で貸し出されている会議スペースのような場所だったが、雰囲気が違うのはあちらこちらに林立したチェスセットの所為であろうか。

 受付で申し込みを済ませ、小梅は対局スペースへ、そして涼は壁際に立ってその様子を見守ることにした。平日だというのに、ちらほらといる自分と同じく壁を背に所在なさげに立つ大人たちは、子どもの付き添いだろうか、と涼は推量した。

 

 デビュー戦を終え――もっとも、事務所で高位のプレーヤーたちから予め実戦形式のレクチャーを受けていたので、対局前の握手に始まり、チェスクロックを用いて対戦、終わったら感想戦をするという流れにも小梅にとって目新しさは何もなかったのだが――小走りに駆け寄ってくる小梅の表情が優れないのを涼は見て取った。しかしまぁ、一戦でも勝てればその顔も晴れるだろうと、そのときは気にしていなかった。時計を見遣り、まだ余裕のあることを確かめて涼は小梅の頭を優しく撫で、再び戦場へと送り出す。心機一転、勢い込んで受付へと駆けていく小梅。

 

「4. Nxe5。こんなことをしているんじゃ、勝てないと思いますよ」

 

 上目遣いに申し訳なさそうに、しかし決然とした口調で前髪の長い少年は小梅に言った。

 

「こんな手は聞いたことがないわ。チェスは将棋と違って駒を打ち直せないんだから、序盤でロスしたら取り返せるわけがないでしょうに」

 

 中年の婦人はやや困ったような顔で小梅にそう告げた。

 

「ナイトのタダ捨て、ね。馬鹿にされてるのかと思ったよ。何が悪かったかなんて言わんでもわかるだろう」

 

 ゲームが終わってからたっぷり5分ほど、むっつりと押し黙っていた恰幅の良い禿げ頭の男は、吐き捨てるようにそれだけ告げると荒々しく椅子を引いて立ち上がり足早に去っていった。

 

 項垂れる小梅の肩に、優しく温もりが置かれた。顔を上げれば、思案顔の涼が立っている。

 

「そろそろ、帰ろうか」

 

 小梅は黙って頷いた。

 

 

 

 押し黙ったまま道を歩く小梅を横目に収めながら、涼は「まぁ、勝てない日もあるだろう。調子が悪い日だってあるさ」と慰めた。

 しかし小梅の頭は別のところにあった。実際、誰かと対戦できること自体は小梅の喜びにして楽しみだったので、勝ち負けは二の次であったからである。彼女の頭を支配していたのはもっと別のこと――靴で踏みつけられ、唾を吐き掛けられたハロウィン・ギャンビットであった。文香やフレデリカといった、敬愛するプレーヤーが自分のことを担いだとも思えず、しかし披露してみれば『そんな手はない』『こんなラインは聞いたこともない』と言われる。そのジレンマで小梅は苦しんでいた。

 

 そして何より、彼女が一番気落ちしていたのは、相手といっしょにゲームが楽しめない、そんな試合もこの世にはあるのだと知ったことであった。

 

 

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「あら、変なオープニングなんてないわ。マイナーなオープニングというものはあるけれど……」

 

 話を聞いた奏は間髪を入れずに言った。鼻を鳴らす様子は、何かに対し怒りを抱いているかのようだった。

 

 

「……マイナー・オープニングだって、強いこだわりと確かな経験、そして豊富な研究で戦うプレイヤーはいくらでもいます。たとえば、フレデリカさんは黒番でフランス防御を使いますし、うちのプロデューサーさんは聖ゲオルギウスの防御が得意です。1. c4から世界ランク3位に上り詰めた人もいます」

 

 感情を見せずに、文香は語った。整然と、証拠を提示しながらである。しかし思慮深さを感じさせる、その伏せった青い瞳はどこか寂しげであった。

 

 

 小梅は、自分の好きな人たちとボードを囲めればそれ以上は望まない、と思い直すことで落ち着きを取り戻したかのように見えた。

 心のどこかに、蟠りを抱えたまま。

 

 

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 ホラー映画を見るのが好きで、お化けや怪談といった類に目のない彼女の噂は狭い業界で独り歩きし、やがて一本の仕事を連れてきた。

 彼女にオファーを持ってきたプロデューサーは、仕事の内容について事務的な面持ちで話をした後、口調を変えて小梅を案じた。

 

「の、呪いの館……?気になります……」

 

 曰く、長らく人が住んでいなくて、荒れ果てた洋館のロケだという。この館は人こそ住んでいないものの、今の持ち主ははっきりしている。では手入れをするなり何なりすればよいのだが、そこで呪いが絡んでくるというわけだ。

 

「処分できないお屋敷……」

 

 現在の管理人が相続した際、気味悪がって早々に更地にしようとしたのだが、着工した解体業者では不幸が相次いだ。二度、三度と重なるうちに悪名高い屋敷の工事を引き受ける業者はいなくなってしまった。

 困り果てる管理人のもとに舞い込んできたのは、取材の申し出であった。怪談や呪いといった話を取り上げる特番のスタッフからであった。全国的に有名になれば、この屋敷を潰してくれるという業者も出てくるかもしれない――そんな一縷の望みを託しながら取材の許可を出した彼だったが、現場で撮影隊に事故が相次ぎ、映像はお蔵入りとなったのであった。

 そうなると、今度は単独取材に成功した、という名声を求めて数々の番組がこの地を訪れた。結果は、惨憺。

 

「き、危険?大丈夫、プロデューサーさん。も、もしかすると、『この子』みたいに、悲しい子が残ってるのかも……」

 

 ああでもない、こうでもないと躊躇っていた小梅のプロデューサーであったが、彼女の強い意志を秘めた顔つきに、渋々とこの話を受ける旨を番組クルーに連絡した。

 

 *

 

 管理人だと名乗る老人は、小梅一行を気の毒げな表情で出迎えた。

 

「危ないことがあったらすぐに引き返すと、そう約束してほしい」

と撮影隊にしつこいほどに彼が忠告した後、恐る恐るといった雰囲気の中でロケは始まった。

 小梅と、それからプロデューサーの懇願で急遽の起用となったアイドル・鷹富士茄子がゆっくりと歩いていくのを、カメラが追いかけていく。

 

「ご、ごめんね。大丈夫、私たちは、邪魔しに来たわけじゃないの」

 

 時折足を止め、中空に向かって優しく声を掛ける白坂小梅。その様子を姉のような表情で観る鷹富士茄子。いわくつきの洋館を取材していると思えぬほど柔らかい空気に撮影現場は包まれていた。

 管理人の先導で奥へ奥へと進んでいく一同。今は荒れ果てて見る影もなかったが、造り自体はとても立派な屋敷であった。古い大きなピアノには蜘蛛の糸が張り巡らされ、縁に手の込んだ彫刻が施された姿見は埃が積もりくすんでいた。芸術的な括れを持つシャンデリアはもう幾十年と明かりを灯したことがなく見えて、その下にある大きな一枚板のテーブルは誰かを持て成すという使命を忘れてしまったようだった。

 時間の止まった洋室で、舞い上がる埃に窓から入る光がレンブラント光線のように空間を切り裂く。ある部屋で小梅は、古ぼけた両袖机に置かれたアンティークのインテリアに目を止めた。

 

「小梅ちゃん、どうしました?……あら、これは」

 

 足早に近づき、小梅の肩越しに覗き込んだ茄子は、それが年季の入ったチェス・セットであることに気が付いた。

 

「ご主人は、チェスが趣味だったのかしら」

 

 茄子の呟きを聞きとがめた老人は答える。

 

「この館は、私の祖父が勤めていました。私も彼から、主人の唯一といっていい趣味がチェスで、そしてそれは相当な腕前だったと、まるで自分のことのように誇らしげに語るのを聞かされたことがあります。主人のひとり息子もまたチェスが好きだったようですが、彼はまだ幼い頃に熱病で……」

 

「まぁ、それは」

 

「……埃が被ってない」

 

 食い入るように見つめていた小梅が、そう小さく呟いたのを聞いた者はいなかった。彼女だけが、何層にも堆積した砂っぽい埃に塗れたデスクの上に、錆ひとつ浮かせることなく置いてあるチェス・セットの様子に気が付いたのであった。

 

 *

 

 ぐるりと館を一周する間、クルーが床を踏み抜いたり、プロデューサーが虫に怯えたりといった細やかなアクシデントはあったものの、撮影は恙なく終了した。前評判とは打って変わっての、いたって穏やかなロケだったことに誰もが肩透かしを食らったような顔をしてほっと息を吐いた時である。

 

「……小梅ちゃん?」

 

 白坂小梅の不在にいち早く気が付いたのも、茄子であった。慌てる彼女を筆頭に、手分けして姿の見えない小梅を探し回る一同。ここにきて忽然と消えてしまうなんて、と悪い予感がそれぞれの頭を過っていた。

 呼びかけても答えない彼女に次第に焦燥を募らせる一同であったが、そのとき茄子の頭にティンと来るものがあった。駆け出す彼女を慌てて大人たちも追いかける。

 

「小梅ちゃん!」

 

 振り返った小梅は、果たして彼女の予想通りに、チェス・セットの前にいた。安堵する茄子とプロデューサーと対照的に、何かを考え込むように皺の深い顔を曇らせる管理人の姿があった。

 

「心配しましたよ、小梅ちゃん」

 

「ご、ごめんなさい。……この子が、待っててくれたから」

 

 その言葉を聞いて、一度、二度と顎を引き深く頷く老人。そして、意を決するように切り出した。

 

「お嬢さんさえよければ、なのだが……このチェスセットをもらってやってはくれませんか」

 

 素人目に見ても鋳物の人形たちに、厚みのあるチェッカー模様の板は高級そうに見えて、彼女のプロデューサーは横で戸惑ったが、小梅は少し微笑んで老人を見つめた。

 

「私は少しだけ、囲碁を嗜むのですが……やはり、道具は使われてこそ、だ。それに、こんなにもこの館に穏やかな空気が訪れたのも久方ぶりのこと。貴女さえよければ――」

 

 *

 

 帰り道を走る車の後部座席には、大事そうに黒皮の鞄を抱きしめる白坂小梅と、それを微笑ましく見ている鷹富士茄子の姿があった。

 彼女たちは後日、風の噂で、件の館が処分されたと聞いた。

 

 

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 貰って帰ったチェスセットを丁寧に磨き、一人で並べてみる小梅。改めて磨く必要もないほど、長い時間を打ち捨てられていたとは思えない輝きを人形たちは放っていたが、自分の作った人形に魂を込める人形師のような面持ちで彼女はひとつ、またひとつとクロスでメタルピースを磨いては並べていった。

 

「ふふ……つ、付いてきちゃったんだね」

 

  顔を綻ばせると、小梅は白のeポーンを2マス進めてから、食事を取りに部屋を後にした。帰ってきた小梅は、同じくeポーンの進められたボードを見つめる。

 不思議な対局の日々が始まった。

 どれだけ考えても、辛抱強く待ってくれるこの相手が小梅はすぐに好きになった。事務所に行って奏や文香、フレデリカたちに習ったことを、家に帰って小梅はすぐに彼と試した。

  そうして場数を重ねるうちに、どうやら『彼』は、このチェス・セットの前から動かないらしい、と小梅は気が付いた。どこに行くのもついてくる『あの子』に対して、『彼』は小梅がその場を離れると、じっと彼女の帰りを待っていた。

 

 *

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 3手目にして互いのナイトが跳ねるこの形は、フォー・ナイツ・ゲームと呼ばれる。合戦を前にして、整然と佇む騎士が凛々しい陣形だ。小梅は束の間の逡巡の後、顔色をうかがうような手つきで、チェス・クラブの戸を叩いて以来プレイを封印していた手をそっと指した。

  1. Nxe5

 

 誰かを否定することのない、そして誰かに否定されることのない――それは勝ち負けの形なのだろうか。

 小梅は初めてチェスの手ほどきを受けた日に憶えた感動と楽しむ心を、いつしか自分が忘れていたことに、気が付いた。

 

 

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 時を同じくして、あの日が彼女がチェス・クラブで戦い最初で最後に日になったようだ、と聞いたフレデリカと文香は秘密裡に動いていた。

 

 彼女たちはまた、小梅がチェスを始めたのをきっかけとして、年少のアイドルたちにせがまれるままにチェスの手ほどきをしていた。その合間を縫って練った企画の概要を、秘め事を話すように、文香はプロデューサーに打ち明けた。

 

「ハロウィンに託けて……チェスのイベントを開いてみたいと思うのですが……」

 

 チェスを続けるうえで最も大切なもの、それは楽しむ心だと、普段の感情を表に出さない様子はどこへやら、熱の入った様子で語った文香にプロデューサーの心は動かされる。

 

 美食の国・フランスでは、味覚教育を通して、児童たちはお互いの個性という概念を体得するという。

 幼い時分に誰かと自分が、『違うけど同じだね』と笑い合える機会ほどかけがえのないものもない、とフランスにルーツを持つフレデリカは述べた。

 

 ふたりが盤を挟んで過ごしてきた時間の濃密さや、培ってきた形而上的な何かを思いやる様に、夜の帳が降りて行った。

 

 

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 二人は握手をして微笑み合う。いそいそと支度をする市原仁奈と対蹠的に、先手を引いた白坂小梅は落ち着いている。アービター塩見周子の合図で、仁奈がチェスクロックを押した。

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 1. e4 Nc6 

 ゲームは小梅のe4からニムゾヴィッチ・ディフェンスのオープニングを迎えた。

 

「手が広いわね……」

 

「そうですね」

 

 声に振り返ると、唇が触れるほど近くに、文香の顔があった。

 

「あら、いたの。言ってくれればいいのに。危うくキスするところだったじゃない」

 

「……別に、奏さんなら……してもいいんですよ……?」

 

 思わぬ切り替えしに奏は瞠目する。そして内心の慌てを押し隠すように、良い女は煙に巻いた。

 

「……ふふ、キスは、お・あ・ず・け。今はそれよりも、あっついものを――」 

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 2. Nc3 Nf6 3. Nf3 e5

トランスポーズして、フォー・ナイツ・ゲームになりましたね……」

 

「まぁ、小梅ちゃんが、オープン・ゲーム以外をやるところを見たことが無いから予想の範疇でしょう?」

 

「そうですね」

 

「見て。今これだけの人が、この対局を見てるんだって……。不思議なものよね。一番観戦数が多いのは……っと、やっぱり蘭子ちゃんと幸子ちゃんのところは多いのね」

 パソコンの画面を指差す奏。第1ラウンドは一斉対局で、各部屋のマッチが別々に中継されている。

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 4. Nxe5

 

「ハロウィン・ギャンビット、か……」

 

「驚きましたね」

 

 奏は、跳ねあがるモニターの数字から目を切り、ふてぶてしさすら見せる文香の横顔を見遣った。

 

「……そのわりには、あまり驚いていないようだけど。貴女って、ホント食わせ者だわ」

 

「ふふ、お褒めにあずかり、光栄です」

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 4. ... Nxe5 5. d4

 驚いた様子でしばらく考え込んだ後、後手の仁奈は恐る恐るといった様子で小梅のナイトを取った。

 

「まぁ、これは初めて見たら困るわよね……」

 

「この後ですね。彼女はまだ、自分の中の葛藤と戦うことに精いっぱいです。そこを超えて楽しめるかどうか――」

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 5. ... Nc6 6. d5

 ナイトを犠牲に、小梅はどんどんと仁奈陣を押し戻していく。戸惑いを表情に露わにしながらも、懸命に考える仁奈。涼しい顔をした小梅は足をぶらぶらとさせながら、考えることそれ自体が楽しそうであった。

 

「ねぇ、この後、時間ある?」

 

「はい、大丈夫ですが……」

 

「一局、付き合ってよ」

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 6. ... Ne5

 Nb8、と初期位置に戻されるのは損だと見てか、仁奈はキングサイドにナイトを集める。

 

 「これは……」

 

 「白の攻めが続くわね」

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 7. f4 Ng6

 d,e,fポーンを手順に展開しながら、ダブル・ナイトを僻地に追いやることに成功した白。

 

「すかさずeポーンを突くわよね」

 

「えぇ。……その次の手ですか。かなり研究したんでしょうね……」

 

  二人はこの短手数の間に小梅が張り巡らせた罠に思いを馳せる。

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 8. e5 Qe7

「やはり……」

 

 そう、白のキングをピンすることで9. efを間接的に防ごうという、自然に見えるこの手こそが罠であった。

 

「当然、彼女は気づいているわよね。まさか……」

 

「それはないでしょう」

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 9. Qe2 Ng8

「筋に入った、って言うのかしら?将棋だったら」

 

「そうでしょうね。恐ろしく冷静で沈着なクイーンの楯でした」

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 10. d6 cd

 ゆっくり時間を使いながら、着実に仁奈のキングを追い詰めていく小梅。雑念などない、思考の海に揺蕩っているかのような心やすさすら感じさせる。

 僅か10手、されど10手。ゲームは早くもエンディングを迎えている。

 

「このd6は痺れるくらい気持ちの良い手だわ」

 

「d5のマス目を空けたのが本当に価値が高いですね……」

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 11. Nd5

 自分で空けたマスに残る1基のナイトを跳び、引き摺り出したクイーンを切りつける。

 

「ここから白が勝つ順は幾つもありますが……」

 

「心配しなくても、互いを称え合える、素敵な順をあの子は残してくれるわ」

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 11. ... Qd8 12. Nc7+

「ほら、ね」

 

「これは鮮やかですね……この手に辿り着くまでに、どれだけ孤独を歩んだことか」

 

 なるほど文香が溜め息を洩らす、鮮やかな決め手であった。12. ... Qxc7と取る手には13. edと予めぶつけておいたポーンを清算した手が目から火の出るダブルアタックになる。

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 12. ... Ke7 13. ed+

 ディラックの海では、全世界が固唾を呑んで小梅のか細い指が描き出す、美しく重層的なコンビネーションの旋律に耳を傾けていた。

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 13. ...  Kxd6 14. Ne8+

「今は亡き半身を求めるかの如く……よく働くナイトでした」

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 15. Kc6 Qb5#

 

  リズムを掴んでからは、強手の氾濫。緒戦を鮮やかに勝ち切り、モニターの中から存在感を印象付けた小梅は晴々とした笑顔で、敗戦の痛手もどこへやらコンビネーションに感激する仁奈と感想戦を始めた。 

 

「ハロウィンって、捨てたものじゃないわね」

 

「……それもそうでしょう。ハロウィンが終われば、ケルトの民は厳しい冬を耐え抜く日々を迎えたのですから」

 

「そっか。ハロウィン、楽しまなくちゃ……でしょ?」

 

(続く)