愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

砂上の足跡を辿る (第1回:小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』)

 

速水奏「あら、ケイト。何を読んでいるの」

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ケイト「ハロー、カナデ。これデース」

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奏「あら、これ。文香のコラムが載ってるヤツね」

 

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 シュピッツヴェークの『本の虫』という絵画を見たことがあるかしら。私はこの前、偶然だけど本物を観たの。文香の叔父様の本屋さんで、ね。ふふっ、文香ったら、はしごに昇ったまま手持ちの本を読み始めちゃって、慌てたわよ、まったく。でも、そこが彼女らしいというか……幸せそうな彼女を見ていると、こちらもなんだか幸せなのよね。

 さて、私からバトンを渡す形で、今月号から始まるコラム・『砂上の足跡を辿る』は、ビブリオフィリアである鷺沢文香がチェスにちなんだ本を紹介するコーナーよ。チェスを扱った小説や、小道具として印象深く登場する文学、はたまたチェスの教本とか……彼女の選書眼と書物愛から滾々と湧き出る文章は楽しみね。

 (奏)

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  数学のひとつの分野に、『美』を研究する学領域がある――そんな話を以前、聞いたことがある。私は驚いたものだ。数式と論理で客観性の極みの様な世界を打ち立てる数学に、主観と曖昧の問題である『美』を研究するものがあるなんて……と。

 美しさ、というのはとてもぼやけた輪郭を持っていて、掴みどころがない。美しい、と思うものは個々の感性に委ねられる微妙な問題だし、『美しきもの』として一定の評価を得ているものに対しても、各々が抱いている感傷が果たして十把一絡げの『美しい』で捨象してしまえる心の動きかどうか、疑わしいものである。同じ人物から出て来る同じ言葉であってもそれは、複雑だ。夜空に浮かぶ星の美しさと、精緻なオルゴールから流れる旋律の美しさと、息を呑むような女性の顔立ちの美しさと、伝統工芸品の漆塗りの美しさは果たして同じパラメータで測れるものたるのだろうか?

 チェスというボードゲームは数多の性格を持った一大文化であるが、それが内包するひとつに『美しさ』というものがあるのは周知の事実だ。では、チェスの美しさってなんだろうか。そう考える濃密で甘美な時間に、ひとつ広がりを与えてくれるような、優しい小説を紹介したい。

 記念すべき初回に私が持参したのはこの本だ。

 

『猫を抱いて象と泳ぐ』 小川洋子 文春文庫 2009年

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 チェスを題材とした小説というのは幾つかあるが、最初に紹介すべきは……と考えたときに、これしかないような気がしたものである。まずはあらすじを語りたい、しばしのお付き合いを――。

 

 主人公は後にリトル・アリョーヒンと呼ばれるようになる男で、彼の幼少期から不慮の死までの時間軸がこの作品に通底する。彼は唇の裂が癒着したまま生まれてきた、というのが後々まで響いてくるユニークな設定で、さすがの小川クオリティ、細やかで優しい『欠け』の仕掛けだと読者を唸らせる。小川洋子作品に出て来る、表情と思慮と優しさが溢れる愛すべきキャラクターはどこかにこの『欠け』を懐いた者が多いが、〝リトル・アリョーヒン〟は唇を閉じたまま生まれたというのはシンボリックだ。唇とは裂が開くことで発話を司るものであり、また露出した粘膜は『唇を合わせる』というように親愛表現にも密接な器官である。顔の表情に口唇が担う役も大きい。生後すぐに処置を受け、裂は切り離され脛の皮膚が移植された彼の唇は成長と共に脛毛が生えるようになるのだが、機能上不都合がないにもかかわらず、リトル・アリョーヒンは物静かな人物として描かれていく。一歩引き透徹した目で切り取られる世界は静謐で美しく、あたかもひとつの洗練されたチェス・ゲームのようだ。

 

 リトル・アリョーヒン少年の最初の友人は、インディラという象――これがタイトルの『象』なのだが、インディラは既にこの世のものではない。この象は、とあるデパートが開店する記念にインドから借り受けた象で、小象のときに屋上に誘致され当初はある程度の大きさになった次点で返却される予定だったのだが、彼女は大きくなり過ぎた為にデパートのエレベーターに載せられず、ついにその生涯をデパートの屋上で送ることになったという数奇な象であった。彼は祖母に連れられこのデパートに出かけるたびに、展示されているインディラの足環と彼女の生涯を記した碑を繰り返し読み、『大きくなり過ぎたために出られなくなる』という状況に繰り返し心を痛め、いつしかインディラは少年の友人となっていたのである。

 もうひとりの友人は、ミイラの少女である――もっとも、これも実体を伴っている訳では無いのだ。彼の棲む区画は家と家の隙間がとても狭く、この界隈で語り継がれている都市伝説として、「家と家の隙間に入り込んで行方不明になった少女が、ミイラとなってそのまま隙間に遺されている」というものがあった。少年はおとなたちが言う『ミイラ』を少女の名前と思いこんだまま、この出て来れなくなってしまった少女にも友愛の情を憶えていたのだ。

 こうして独特の感性を持つ少年とチェスの出逢いはまた劇的だった。静かな世界を描く筆致は、ともすれば退屈になってしまう嫌いがある。しかし湖面のように澄んだ水面は掻き乱せば好いというものでもない、この点で本作は筆力だけでなく構想力にも小川一流の匙加減が存分に味わえることを記しておこう。天才少年とチェスの出逢いは、彼と死体の遭遇によって引き起こされるのだ。

 

 彼がバス運転手の水死体の第一発見者となったのは、少年が通う小学校のプールだった。オフ・シーズンで汚れ、しかし水が抜かれてはいない季節。右隅に浮かぶ全裸の水死体の背中を見つめる、唇に瑕疵持つ少年の視線。とても絵画的で、しかもリズムを崩さず非日常を挿入し、小石に搖動された湖面の波紋のように物語が進んでいく。

 死体がバス運転手、という事実から、浮かされた足取りで近所のバス会社を訪れるリトル・アリョーヒン少年。何か目的意識に突き動かされたわけでもない戸惑いを冷静に分析しながらも足を止めることが出来ない少年は、孤独な死体を想起しながらバス会社の職員寮へと忍びこむ。そこでバスを見つけ、困惑と好奇心の鬩ぎ合いの内に覗き込むと視界の外から少年に掛けられる声。

 この声の主が、リトル・アリョーヒンのチェスの師となる寮の管理人・『マスター』であった。国際レーティングを持っている訳でもなければ、精力的に大会に出るアクティブ・プレイヤーでもない彼はただの趣味人であったが、リトル・アリョーヒンの指し手を『待ち』『寄り添う』善き指導者であり、また『駒の声を聴く』ことができる、チェスの美しさを解するプレイヤーであった。役を解かれた廃車のバスは回送表示以外を示さない。その回送バスの中で暮らすマスターは、お菓子を作ることが好きで、自身もとても太っていた。あの寂しい死を遂げたバス運転手がマスターのチェス友達であったこと、彼はマスターとチェスを指した後には頭を冷ますといって傍の小学校のプールに忍び込んで泳ぐのが好きだったこと、彼が物言わぬ朝を迎える前夜もふたりはチェスを指していたこと――リトル・アリョーヒンはこうして何かに導かれるように、マスターにチェスを習うようになる。

 厳しく指導する訳でもなければ、体系的な指導要領を持っていた訳でもなかったが、マスターは少年の才能に寄り添い、彼が納得するまで根気よく待ってチェスを教えていった。リトル・アリョーヒンは、チェス盤の下に潜りこんで手を考え、プレイするというスタイルを持つプレイヤーになるのだが、それはこの回送バスの中で涵養された。考える時にテーブルと一体化した形のチェス盤の下に潜り、マスターの飼い猫である『ポーン』を抱きしめていつまでも考えるというこのプレイスタイルを訝しむことも叱ることもなく、それで彼がチェスを愉しめるなら何の障害もないと受け止めた師の存在は大きい。ちなみに、『盤上の詩人』と称えられた伝説のチェスプレイヤー・アリョーヒンが猫を飼っていたことは有名な史実であり、彼の生前の肖像は猫をそのかいなに抱きチェス盤の前に座っているものも残されている。

 

 マスターと少年とポーンの不思議な日々の中にもドラマがあり、マスターはいちど『パシフィック・チェス倶楽部』というチェス倶楽部の入会試験を受けさせに少年を連れだしたことがある。内容こそ「まるで『盤上の詩人』じゃないか!」と称えられた名ゲームだったものの、この少年独特のプレイスタイルが『品位に欠ける』として彼は入会試験に落ちてしまうのだが、少年としてはマスターの提案を無碍にしないように参加しただけであり、マスター手作りの甘い菓子を食べながら、やはりマスター手作りのチェス・テーブルの下でポーンを抱きしめ、マスターとチェスをする日々より欲しいものなどないと安堵するのだった。

 両親を失い祖父母に育てられているリトル・アリョーヒン少年は、チェスにのめり込むあまりボックス・ベッドの天井に白と黒でチェッカー模様を描いて欲しい、と家具修理職人である祖父に頼み、ここで天井のチェス盤を見ながら頭の中でチェスの研究をするようになる。こうして「チェスを下から眺める」というのが確立され洗練されていく。

 

 安寧の日は唐突に破られる。

 少年はある日、運河沿いのストリート・チェスを見つけて飛び入り参加したのだがそれは賭けチェスであった。デパートの子どもチェス大会で優勝した際に得た商品券を賭け、勝ちを収めた少年は弟とデパートでお子様ランチを食べるのだが、自分の行為がチェスを汚してしまったんじゃないか、と気に病み続ける。悶々としながら回送バスを訪れると、マスターは顔を見るなり「賭けチェスをやったんだね」と言うのだ。

 マスターは叱ったわけではなく、寧ろ少年を案ずるように、「金を稼ぐための道具と成り下がった賭けチェスはチェスではない」と諭す。こうして、神聖な美しさをチェスの中に見出すリトル・アリョーヒンが芽生え、根付いていくのであったが、マスターの胸の中で涙を流す少年が、マスターとチェスを指す日は二度と来なかった。

 

 肥満し過ぎた死体を、回送バスから回収するのは困難である。

 少年が次に回送バスを訪れたとき、バスの周りを野次馬が囲み、進入禁止のテープが張り巡らされていたのを彼は観ることになる。それは前述の理由で、重機が回送バスを壊しマスターの死体を回収しようとしているところであった。少年の前で無慈悲にバスの入口は壊され広げられた後、肥満した腹に顔を埋めるようにしてこと切れている250キロの死体はクレーン車で回収されていく。吊り下げられていく死体に野次馬が目を取られている間に、彼はポーンが叢へと姿を消すのを目にし、奔ってバスの残骸へと向かうのだが、彼がポーンをその腕に抱くことも二度と無かったのである。壊されたマスター手作りの家具に囲まれながら、形を留めているチェス・テーブルを撫で、床に散乱した駒を掻き集めてポケットに収め、少年は大きなチェス・テーブルを伴ってバスを去った。

 インディラ、ミイラ、そしてマスター……「大きくなること」への本能的恐怖を海馬に刻む少年は、ついに11歳の身体で成長を止めることとなる。

 

 持ち帰ったチェス・テーブルの下に潜り、マスターの死を悼む少年。その喪が明けた時、パシフィック・チェス倶楽部の事務局長が彼を尋ねて来る。彼は少年の「盤を見ることなくプレイできる」という才能に目をつけ、彼をチェス倶楽部の更に下階で催される海底チェス倶楽部という団体にスカウトしに来たのだった。

 ここでは会員はランダムチェスや人間チェスなど変わった形式のチェスをプレイすることができる――なぜそのような組織が運営されているのかは事情があるのだが、これは割愛しよう。ともかく「盤を見なくともプレイできる」才能のリトル・アリョーヒンは、「自動チェス人形と対戦できる」という売りのアトラクションで、その自動チェス人形の操作役として見初められたのだ。このチェス人形こそ、アリョーヒンを模した『リトル・アリョーヒン』であり、少年はマスターの形見であるチェス・テーブルでゲームをすることを要求し、祖父の手を借り人形とチェス・テーブルが一体化した装置が完成する。この下に潜って絡繰りを操作しチェスをプレイしていくのが、リトル・アリョーヒンの生活となっていった。人形は、同じく人形として作られた猫を右に抱いており、彼はこの猫にポーンの墓標を見出すのである。

 

 ここでリトル・アリョーヒンは様々な相手と対局をしながら自分の腕も磨いていくのだが、自動人形と対戦できるという企画の面白さに加え、リトル・アリョーヒンが『どんな腕前の相手とも美しい棋譜を残す』という人間離れした業をやってのけたために評判となり、この企画は海底チェス倶楽部の目玉となっていった。

 自動人形リトル・アリョーヒンは『老婆令嬢』というパトロンの出資によって完成したのだが、彼女との対戦をリトル・アリョーヒン青年は楽しみにしていた。彼女との対戦シーンほど優しい筆使いで切り取られたチェス・ゲームを私は知らないので、ここはぜひ自分の手でページを繰って欲しいものである。

 

 自動人形は駒を同時にふたつ持てないため『相手の駒を取れない』という欠点があった。この短所をフォローすべく起用されたのが、チェス倶楽部が入っているホテル付きの手品師だったが事故死してしまった父を持つ少女だった。この少女を『ミイラ』と呼びアシスタントとしたリトル・アリョーヒンは、手品用の鳩を片時も離さず肩に乗せている少女とタッグを組んで、『海底』でチェスを指した。

 ミイラは父親に連れられて世界を旅していたときの話をリトル・アリョーヒンにするのだが、彼の興味を殊更に引いたのは、富豪が邸の離れを開放していた『チェス博物館』であった。正確には、彼はそこで展示されるばかりでゲームをプレイされないチェスセットには憐みこそあれど関心をそこまで示さなかったが、ナツメヤシの種を掘って駒を作った『世界一小さなチェスセット』に強く惹かれたのである。それは「ゲームに使われてないセット」という点では他の華美なコレクションと変わらなかったが、確実に違う点がふたつ、あったからである。『小さい』ということと、それゆえに『作られた時点でプレイが不可能なチェスセット』という矛盾した存在であること。この二点はリトル・アリョーヒンの心を打った。

 

 ある日『リトル・アリョーヒン』との対戦相手として表れた酔っぱらいの男に殴られ、人形が破損してしまう。

 この人形不在の間、リトル・アリョーヒンは海底倶楽部の別の種目である『人間チェス』を担当することになる。ここではリトル・アリョーヒンは放送室に閉じ込められ、自分と相手の拡声器を通した発声のみでプレイをするのだが、実は『人間チェス』は、駒として用意された女性こそ挑戦する人間の目的であり、取った駒を愉しむことができる、というものであった。リトル・アリョーヒンがその実情を知るのは偶然に人間チェスの駒に欠員が出たためにミイラがその代役として駆り出されたときである。ゲーム内容に満足し、ミイラの扮するポーンを犠牲にして掴んだ勝利に酔う彼だったが、その実態を知り激しく己を責めることになる。そして、賭けチェスに挑んだとき同様、自分の行為がチェスの品位を貶めていないかと自答し悩んでいく。

 そんな折、人形は『老婆令嬢』の出資を受け修理された後、リトル・アリョーヒンが下のスペースに潜って操作する際の調整をする為、彼の祖父の工房に運ばれてくる。ここで呻吟と葛藤の果てに彼が捻り出した次の一手は、『リトル・アリョーヒンを海底から救い出す』というムーブであった。海底の泥の汚穢に身を横たえることをよしとせず、『盤上の詩人』の名が冠されたこの自動人形をその汚泥に塗れさせることもまた嫌った彼の手が、盤面を動かしていった。彼は祖父と、その弟子となった弟に頼み込み、この人形を分解し持ち運び可能なようにしてもらうのだ。成長の止まったリトル・アリョーヒンの身体を取り残す様に時間だけが流れており、弟は立派な青年になって、祖母は病に臥せっていた。彼らがその改造に着工していたとき、夜分というのに現れた客分がいた。足音でわかるその客人は『老婆令嬢』であり、彼女とリトル・アリョーヒンが対戦というのは物語上でも大きなヤマとなっている。それはこの場面が、彼女の導きでリトル・アリョーヒンと人形が海底から浮き上がり旅立つことになる岐路としての意味を持つシーンでもあるし、熱望していたがそれまで叶うことなかった祖母が孫の雄姿を初めて目にし、満足の裡に息を引き取る別れのシーンでもあるからである。まるでオーケストラのために書き下ろされた小作品を聴いているような心地に陥る圧倒的な叙述力は必見だ。

 

 彼の決意と、『老婆令嬢』の導きが合流し、リトル・アリョーヒンは老人専用マンションで応募されていたチェス指しの役に着くことになる。山間に建てられたこのエチュードという名のマンションは実はチェス連盟の元会長が計画し着工したマンションで、居住者の老人は全員が連盟の会員であった。彼らは老いと衰えの中でもチェスを指す者たちであり、その最後の時間に寄り添うようにして『盤下の詩人』リトル・アリョーヒンは老人たちとチェス盤の中で語らい、彼らを看取っていく。

 新生活ではまた、彼の心弾ませる出来事があった。ミイラからの手紙が届いたのである。逸る心を抑えて開封した手紙には、ひとこと『e4』の文字が。この瞬間から、ふたりの郵便チェスが始まった。

 昼間は雑用として働き、夜は老人を相手にチェスを指し、ミイラと通信チェスをすることで充足していたリトル・アリョーヒン。彼の仕事場となったエチュードを、現役の国際マスターが慰労するというイベントがあった。国際マスターが選りすぐり10人の老人と10面指しを終えた時、嵐のせいで山間にあるエチュードから山を下る唯一の手段であるロープウェイは停まっていた。急遽国際マスター一行は日程を変更し、その日はエチュードに留まることとなる。そして、彼が希望したのは『リトル・アリョーヒンとの対戦』であった。随行していた新聞記者が執ったこの棋譜は『ビショップの奇跡』と呼ばれ、リトル・アリョーヒンが唯一この世に遺した彼の生きた証となる――。

 リトル・アリョーヒンの死はあまりに淡白に訪れる。エチュードのチェス室の暖炉が不具合によってボヤ騒ぎを出した夜のことである。いつものように、人形の中にスタンバイし寝付けぬ老人を待っていたリトル・アリョーヒンは、終局が近づいているミイラとの郵便チェスのことを考えていた。この往復書簡が終わったら、ふたりはどうなるのか。終わらせたくないと思いながらも、相手がミイラだからこそ、今までのどのゲームにも恥じない美しい棋譜を残したく思い、そのゆえに徒にゲームを長引かせる訳にはいかない――マスター手製のチェス・テーブルの下に潜って思いを巡らす彼は朝日を見ることが無かったのだ。夜間にチェス室を誰も訪れなかった珍しい夜、壁とカーペットの一部を焦がした火も自然に鎮火していた。エチュードの住人は、いつしか自動人形が対戦可能な時の合図となっていた、彼の抱く猫の首に鈴が付いていることを信じられない面持ちで見つめたのであった……。

 

 

  読後、耳がこちらの世界に戻ってくる。自分の血流すら聞こえるくらいのしじまにいたのが嘘のように、私は茫然としながら歎息した。そして、自分の開かれた唇から漏れ出た呼気の響きが、思わず手を固く握り締め、息をするのも忘れて見入っていたチェス・ゲームの熱戦が終わり、目の前でキングのピースが倒された瞬間に漏れ出たものと同じだということに気が付いて、もう一度、今度は意識的に長く息を吐いたのだった。造形ではなく、精神面でこんなにも魅力的なキャラクターを言葉という彫刻刀で克明に掘り出していく作家は無二の存在だと思う。それほどに小川洋子というファインダーが切り取る世界は優しく静かで、その中でも本作はある意味彼女の創作世界の極点にあるようなものだと感じる。背表紙を閉じたとき、心地よい疲れを目蓋に感じながらあなたが思いを馳せる『チェスの美しさ』と、私が宙に浮かんでいるのを掴みとったそれは同じものとは限らない。しかしながら、私の中にも、あなたの中にも、同じ言葉で仮象される美しさの正体に少し近づける何かが残されることだけは、間違いない。文庫版で364ページと長い物語ではないが、限られた時間を費やすに価する名著だと、自信を持って断言できる一冊である。

 

 

 私が気に入ったところをいくつか述べておこうかとも思ったが、辞めた。無粋だからだ。透き通ったステンドグラスに指紋を残してしまう程、デリカシーのない行いもないだろう。

 

 

 本コラムのタイトルは、古くは『デカンショ』と呼ばれたドイツの哲学者・ショーペンハウアーの言葉に拠を求めた。医学を学び、哲学へと転科した異色の経歴で知られる彼は博覧強記で鳴らし、『読書について』なる、読書論を上梓しているほどだ。私が引いたのは、

 ――紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者の辿った道は見えるが、歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

 というものである。足跡とは比喩に富んだ表現で、たとえばキリスト教にはFootprintsという聖書の話があるが、継続と蓄積、そして方向性という指標を内包していることが取り上げられる所以なのだろうか。

 

 

 勝負の世界には、泥臭さや苛烈極まる努力、そして残酷な結果やそれらに翻弄されながら片時も不変でいられない人間たちの姿が付き物だ。だからこそ、こんなにも澄み切った側面があるのだと知ることは幸せに違いない。フランスの金言に、『心優しい者はチェスを指すに向かない』というものがあるが、果たしてどうだろう。その答えは、清涼な読後感の中に探してみて欲しい。

 

(続く)