愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

星巡る物語 第3回 ~José Raúl Capablanca~

 

 ――私は、あまりに深く星を愛しているが故に、夜を恐れたことはない。

 

 これは天文学の父・ガリレオ=ガリレイの言葉である。

 思えば我々の身の回りに、夜ほどおどろおどろしさの比喩として引かれるものも少ないかもしれない。それは、生来動物が光を求めて歩く生き物だからだろうか。それとも……

 

アナスタシア「ドーブライ、ヴィエーチル……こんばんは、アーニャです」

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アナスタシア「星巡る物語イストリア、今夜で3回目です。さて、アーニャは今日は、どこにいるでしょうか?」

 

 ここはカリブ海に浮かぶ島嶼国。海峡を隔てて新世界と繋がるこの島は、その要所を示すかのように『アメリカ合衆国の裏庭』と呼ばれることもある。また、ラテンアメリカで初めて成立した社会主義政権にちなみ、『カリブに浮かぶ赤い島』という呼び名を聞いたことがある者もいるのではないだろうか。

 

アナスタシア「今日アーニャが来ているのは、カリブ海キューバハバナです」

 

 ハバナキューバの首都である。16世紀初頭、この島にコンキスタドールが居館を築いたことに、この街は始まる。ロスト・ジェネレーションの筆頭に上がることもある文豪・アーネスト=ヘミングウェイがまたとなく愛した街としても広く知られている。彼は晩年をこの街で過ごし、そして傑作『老人と海』が生まれたのである。

 

アナスタシア「髪を撫でる潮風に、命の匂いを感じますね」

 

 この地で生まれ、世界に影響を与えた文化は数多存在するが、その中でも最大級の賛辞と共に語られるのが、カパブランカ・チェスであり、その生みの親・ホセ=ラウル・カパブランカである。

 

アナスタシア「『最強のチェス・プレイヤーとは誰だと思うか?』この質問をすることは、無意味であり、またとても有意義です。なぜなら、時代が違えば評価の規準も変わるので、それを考えずに一概に評価することはできませんね?だから、意味がありません。しかし、こう問いかけることで、目の前の人がどんなチェスを愛しているのか、ということが何よりもはっきりと分かる、という質問という意味では、とても意義深いですね」

 

 私が答えるならば、誰の名を挙げようか。フィッシャーか、それともモーフィか、あるいは。

 そして、その問いを問い掛けた時に返ってくる答えの中には、必ず名前が挙がるだろうプレイヤーがいる。

 シュタイニッツ、ラスカーに次ぐ世界3番目のチェス・チャンピオンにして神の寵児、カパブランカは、1888年ハバナに生まれた。

 

・チェスの申し子として

 

アナスタシア「夜空に燦然と輝き、身を燃やした光を強く届ける星々の中でも、一際大きく輝く巨星、それがカパブランカです」

 

 彼がチェスを覚えたのは、もうすぐ4歳という頃だったと言われている。父親とその友人がプレイをする様を眺めていて、覚えてしまったというから驚きであり、またこの崇高な盤上遊戯と選ばれし者との邂逅は必然として歴史に織り込まれていたことを思わずにいられない。

 

アナスタシア「覚えてから3日後には、チェスを趣味としていた父親に勝ったというエピソードはその天才ぶりを示すあまりに有名なエピソードですね。作り話めいてもいますが、彼の人生を知っている者であればそれを笑うことはできませんし、あなたがもし知らないのであれば、知って行くうちにこれしきのことでは驚きを覚えなくなるでしょう」

 

 彼はすぐに地元ハバナのチェスクラブで随一の強豪に、クイーン落ちのハンデ戦ではあったが土を付ける。生涯を通し公式戦で35敗しか敗者の辛酸を舐めたことが無いこの卓抜した戦士は、凡そ成長ということをしたことがないかのようである。覚えた瞬間から、チェスは彼の細胞に浸透していたのかもしれない。

 

アナスタシア「8歳、プライマリー・スクールに通うホセ少年は毎週日曜日に教会に通うかの如き熱心さでクラブに通い詰め、家でも僅かな時間を見出してはチェスセットに向かっていたと言いますね」

 

 そこから3年、11歳のカパブランカの相手となるような者はすでにハバナにはいなかった。強くなることと無縁の才能、もともと強かったカパブランカは順当にそのキャリアだけを破竹の勢いで伸ばしていった。13歳のときには、マドリード生まれの移民でキューバ・チャンピオンであったジャン・コルソを圧倒したのである。

 

アナスタシア「18歳になったキューバ最強のプレイヤーは、経済的に裕福だった家庭の支援を受けて、コルソの出身校でもあるコロンビア大学に留学しました」

 

 しかし、このチェスの申し子は、64マスに没頭するあまりに専攻の化学を疎かにし、ついには中途退学するに至ったのである。

 

キューバの外交官として

 

 21歳のときに、モーフィ亡き後のアメリカンチェスを背負って立つ逸材と見做されていた当時の米国最強のマーシャルを下してその名を世界に広めたカパブランカ。彼はキューバの外交官に任じられた。

 

アナスタシア「1911年、彼が23歳の年に開かれたサン・セバスチャングランドマスタートーナメントでもマーシャルに勝っています。このときは他にルービンシュタインやビドマールといった並み居る世界クラスの強豪を薙ぎ倒して優勝、更に3年後のサンクトペテルブルクグランドマスタートーナメントでは時の世界チャンピオン・ラスカーに最終局で敗れ準優勝、同時にチャンピオンへの挑戦権を獲得しました」

 

 セルビア人の一青年・ガヴリロ=プリンツィプが引いた一発の引き鉄は、そのまま戦争を終わらせるための戦争の引き鉄となった。

 1914年に始まった第一次世界大戦は、ラスカーとカパブランカのマッチを21年まで延期させた。

 

アナスタシア「27年間、王座に君臨したエマヌエル・ラスカーと期待のルーキーとのタイトルマッチは、しかしいくらかの波乱を含めども最強のチャンピオンの防衛に終わるものだと世間は思っていました」

 

 24番勝負ということで始まったこのタイトルマッチは、カパブランカの4勝10分けの時点でラスカーが途中で棄権するという、誰も予想だにしない結末に終わった。まさか、27年間玉座にふんぞり返っていた絶対王者が、期待の新星とはいえ一勝もできずにタイトルを奪われるとは。

 

アナスタシア「こうして劇的な戦果を引っ提げて世界チャンピオンに就任したカパブランカは、世界中のチェス・プレイヤーの憧れとなりましたね」

 

・チェス機械として

 

 I have known many chess players, but among them there has been only one genius.  Capablanca!  ―Emanuel Lasker

 

アナスタシア「しかし、その輝きは、あまりに強かったが故に、少しの鈍りですら大きな波紋でした」

 

 1927年、ニューヨークで開催されたトーナメントで、アリョーヒン、ニムゾヴィッチ、ビドマール、シュピールマン、そしてマーシャルと並み居る強豪を挑戦者たちに迎え各個撃破。

 

アナスタシア「ミスをしない、ただそれだけのことでした。そして、それは何よりもチェス・プレイヤーとしての才能でした。堅実な序盤、華々しい中盤、そして芸術的なまでの終盤。すらりとした立ち姿に、俳優然とした振る舞い。プレイヤーの憧れとなったカパブランカは、いつしか『チェス機械』と呼ばれる様になっていました」

 

 生涯に35ゲーム、1914年以来の27年間で、たった5ゲーム。

 

アナスタシア「この数字がなんだか、わかるでしょうか。これは、ホセ・ラウル・カパブランカが生涯で喫した敗局の数なのです」

 

 583ゲーム、302勝35敗246分け。驚くべき数字だ。エマヌエル・ラスカーをして「ただ一人のチェスの天才」と言わしめ、『不敗の名人』とカパブランカが呼ばれた理由である。

 

アナスタシア「彼のチャンピオン生活がどのように終了を迎えたか、そのお話をしましょう」

 

 星の輝きに准えられる勝負師の運命は、惨酷だ。

 輝かなければ、星ではない。勝負の世界で残るのは記録だけだ。

 身を燃やして輝きを届けようとするその孤軍奮闘を人は汲んで、記憶する。しかし、記憶に残ればよいと甘んじるプレイヤーは、人の記憶にも残らない。

 

アナスタシア「盤上の詩人と謳われたアリョーヒンは、チェスの歴史上、誰よりも勝ちに拘る選手でした」

 

 彼は1924年のニューヨークで、ラスカー、カパブランカの後塵を拝し3位に収まっていた。そして、このときラスカーが彼を評した「彼はまだ上達しきっていない」という言葉が火をつけたのである。

 

アナスタシア「続く3年後、半ゲームの差でカパブランカに優勝を譲ったアリョーヒンは、『カパブランカに6ゲームも勝つ方法はちょっとわからない。でも、彼だって私にどうやって6ゲームも勝つというのだろう』と言いました。思うに、ここに両者の犬猿の仲は始まっていたのですね」

 

 アリョーヒンを挑戦者に迎えた1927年、カパブランカは世界チャンピオンを奪われることになる。ニューヨーク・トーナメントにエマヌエル・ラスカーが参加しなかったのは、カパブランカの密通があったと言われている。

 

 アナスタシア「アリョーヒンは、カパブランカから世界チャンピオンを奪った後は、格下の相手としかタイトル戦を戦わなかったとして、勝負師としての評価は彼の芸術的な棋譜の評価にやや劣ります。しかし、カパブランカだってまた、タイトルに拘りを持っていました」

 

 カパブランカは、少年時代の熱意に反し、このときにはチェスの研究をしないことでも知られていた。その漲る自信と、チャンピオンへの拘りの間ではチェス機械ですら搖動していたのである。

 

 アナスタシア「誰よりも強い執念を持って世界チャンピオンへの挑戦を遂に叶えたアリョーヒンは、綿密かつ入念な準備を携えカパブランカに挑戦、3ゲーム差でカパブランカから世界チャンピオン位を奪い取ったのです」

 

 カパブランカ、39歳の年であった。

 以後彼は1939年まで、参加するありとあらゆる大会で好成績を収めた。1939年のブエノスアイレス団体戦で、キューバチームの大将として出場し、アリョーヒンを打克して優勝。これがホセ・ラウル・カパブランカの最後の公式戦であった。

 

 アナスタシア「3年後でした。カパブランカはニューヨークにて、53歳の若さで没しました」

 

 彼の死から溯ること約1年。同じ病院ではエマヌエル・ラスカーが最期を看取られていた。彼がカパブランカを称えた言が、冒頭のものである。

 ラスカーが惜しみない賞賛を贈った『たった一人の天才』。彼を戦友・アリョーヒンもまた、宿敵の死を最大限の言辞で送ったのである。

 

 Capablanca was snatched from the chess world much too soon. With his death, we have lost a very great chess genius whose like we shall never see again. ―Alexander Alekhine

 

 チェスはカパブランカ母語である、とレーティは言った。

 彼の母国はチェスであり、またカリブの海に浮かぶキューバ島である。

 

アナスタシア「伝説となったボビー・フィッシャーに、チェス史を変えたアナトリー・カルポフに、そして『同志パッハマンよ、君も知っての通り、私は首相であることが楽しくない。むしろ、君のようにチェスをしているかベネズエラで革命を起こすかしたい』と語ったことで知られているキューバ革命を指導した革命家チェ・ゲバラに。ホセ・ラウル・カパブランカの科学は根付いていきました」

 

 

 誰が最強のチェス・プレイヤーだと思うか。

 その質問は、どこまでも無意味で、愛ゆえに意義深い。

 そして、同時代の巨星たちが口を揃えて、『たった一人の天才』と呼んで憚らなかったひとりの男の等身大の光が、今日も64マスの宇宙に優しく降り注いでいる。

 

 勝ったゲームより負けたゲームの中に沢山勉強することがある。強くなるには、数百局と負けて学ばなければならない。

 チェスは疑う余地なく、絵画や彫刻と同じ芸術である。

――ホセ・ラウル・カパブランカ

 

アナスタシア「ダスヴィダーニャ、ダフストレーチ!」

 

(続く)

 

(ナレーション・川島瑞樹 / 文・鷺沢文香)