愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

星巡る物語 第2回 ~Robert James "Bobby" Ficher~

 

 星の光は、遠く時間と空間を超えて降り注ぎ、我々に神妙な感傷を与える。

 遥か過去に放たれた恒星の、身を削る光が、今日も我々を照らしていく――

 

アナスタシア「ドーブライ、ヴィエーチル……こんばんは、アーニャです」

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アナスタシア「星巡る物語イストリア、2回目ですね。アーニャは今日、どこにいるでしょう?」

 

 アナスタシアの後ろに広がっているのは、運河だ。その向こう側に、不夜城の如く煌々と光を点すビル街が見える。

 

アナスタシア「アーニャは今日、イリノイ州はシカゴ川に来ています。ジリョーニィ……聖パトリックの祝日に、緑色に染まることでも有名な川ですね」

 

 シカゴ川は、アメリカ合衆国イリノイ州クック郡シカゴのダウンタウンを流れる川であり、シカゴのランドマークとして有名なものは殆どこの河川沿いにあると言っても過言ではない。

 シカゴという街は、ニューヨークに次ぐ第二の都市として、19世紀から20世紀にかけ、鉄道・航空そして海運の輸送の要衝として栄えた歴史を持つ街であり、現在も世界で十指に入る金融センターである。

 

アナスタシア「その人は、1943年3月9日に、このシカゴの地で産声を上げました」

 

 第11代チェス・世界チャンピオン、ロバート・ジェームズ・フィッシャー。彼の死後今もなお、世界中のチェスプレイヤーは、憧憬と敬愛の念を込めて彼を『ボビー・フィッシャー』と呼び慕う。

 

アナスタシア「彼の生い立ちを知ると、チェスがフィッシャーを必要としたのと同じくらい、フィッシャーにとってチェスは掛け替えのないものだったのだと、そう思います。以前、カナデの雑誌で記事を観たことがありますが、この機に振り返ってみましょう」

 

 2人のユダヤ人、レジーナ・フィッシャーとハンス・ゲルハルト・フィッシャーは、モスクワで出逢い、結婚した。この地で長女のジョーンを儲け、家庭は幸福の予感と期待に満ち満ちていた。しかし少し後、ソビエト連邦反ユダヤ主義が広がったために、2人はパリへと移ったのである。

 

アナスタシア「ソビエトロシアの広大な国土は、色んな民族の歴史の上に依って立つ大地です。そして、それは悲しい歴史も数え切れぬほど持っている、ということですね。まだユーラシア大陸にロシア公国が設立される前の話です。今のウクライナの辺りには、キエフ公国と呼ばれた国がありました。この国は、近隣の国々から侵略を受けていたのです。そして、その国々の国教はユダヤ教でした」

 

 過去を現在の視点で一概に理解することは能わない。時に我々は拗れた糸と掛け違えたボタンを歴史のテキストの中に見出しては、歎息するしかないのである。

 正視することも陰惨な迫害の歴史。その唾棄されるべきポピュリズムが蔓延した背景に、微かな助燃性を嗅ぎ取ることも、また哀しい。 

 

アナスタシア「レジーナとハンスは後に離婚し、レジーナは国籍を持っていたアメリカへと更に移住します。こうして辿り着いた自由の国で、ボビー・フィッシャーは生まれました」

 

 ロバート・ジェームズ・フィッシャーの出生証明に書かれている父親は間違いなく、ハンス・フィッシャーである。しかし、彼の靴がアメリカの土を踏むことは生涯なかった。

 

・少年とチェスの邂逅

 

アナスタシア「フィッシャーがチェスと出会ったのは、彼が6歳のときでした。スィストラ……彼の姉・ジェーンが、わずか1ドルのチェスセットを買い与えたときに、誰がこの落ち着きのない少年がチェスの歴史に燦然と輝く記録を打ち立て、合衆国民から『英雄』と称えられる存在になると思ったことでしょう」

 

 まるでフェアリー・ゴッド・マザーに見初められた瞬間から、栄華の階をひた走ることが決められたシンデレラの様な、運命だ。シンデレラ・ストーリーは実在する。

 

アナスタシア「姉に簡単にチェスゲームのルールの手ほどきを受けたフィッシャーは、このときから64マスのジャングルにのめり込むようになりますね」

 

 2年後は、ボビー・フィッシャーにとって、またその後のチェスの歴史にとっての一大転機であった。彼の母親が、彼の手を引いて近所のチェス・クラブを訪ねるのである。

 

アナスタシア「思惑は、息子の打ちこむ姿を応援してあげようなんて美談では決してなかったといいます。「こっぴどく負けて、チェスなんか諦めてしまえばいい」、彼の母親にはそんな思いがあったのでしょう」

 

 しかし彼女の目論見を裏切り、ボビーは益々チェスにのめり込み、また上達していくのである。

 

アナスタシア「ちょうどこの時期、共産党員となったレジーナが、男を家に連れ込む爛れた日々を送っていたことも、フィッシャーをチェス盤に繋ぎ止めた一因かもしれませんね」

 

 この時期、シカゴでは数奇なパズルのピースが嵌って行くように、いろいろな出来事が、ロバート・ジェームズ・フィッシャーがチェスに打ち込むという事実に収斂していったのである。手放しで歓迎されない様な類のイベントが幾重にも積み重なり、ボビーを盤上没我の境地に取り残して時間が流れていった。

 

アナスタシア「彼が最初に公式トーナメントに参加したのは、11歳の時でした。そして、ボビー・フィッシャーは14歳でインターナショナルマスターの資格を収めると共にアメリカ国内の覇者となり、15歳でグランドマスターの資格を手にしました。時の最年少記録です」

 

 1957年のアメリカは、これまでにない期待に湧いたことだろう。何せ、チェスはソビエト連邦出身のチャンピオンが独占する一強時代にあったのだ。

 サンフランシスコで開かれたジュニア選手権で優勝したボビーは、続く全米オープンニュージャージー・オープン、そしてニューヨークで開催された全米選手権と連覇したのである。この頃から、豊富なロシア語の文献に学ぶために、彼はロシア語を学び始めたという。

 

アナスタシア「17歳の年、1960年にはマル・デル・プラタ、レイキャビクと続けて世界大会で優勝します。そのときの有名なゲームのひとつを、ユズが前に紹介していましたね。更に、ライプツィヒで開催されたチェス・オリンピック団体戦では大将として出場、最高勝率と名を上げました」

 

 世界を転戦しては常勝。この常勝将軍の足が止まることはあるのだろうか、と当時のチェスファンは誰もが思った。

 

アナスタシア「ライプツィヒから帰ったフィッシャーはまた全米選手権を当然の様に優勝で飾った後、ストックホルムへと赴きました。1962年のことで、ここで開かれたインター・ゾーナルでも1位に輝きましたが、続くカリブ海にあったオランダ王国の島・キュラソーで4位と落ち込み、久しく味わうことのなかった辛酸を舐めましたね」

 

 この後、早熟の天才はめっきり姿を見せなくなる。一度目の引退であった。

 

・二度目の引退、復帰、そして玉座へ

 

アナスタシア「彼が国際舞台に再登場したのは、1966年のことでした。彼の復帰を世界が待っていましたが、意に介さずその2年後にはまた引退してしまいます」

 

 

 そして、更に2年の時を経て、伝説が始まったのである。

 

アナスタシア「1970年の復帰を誰よりも待ち望んでいたのは、何よりチェスそのものでした。当時のチェス界にあって長らく覇権を握り続けてきたのはソビエト連邦です。この年、ソ連中の最高峰のプレイヤー10人と、ソ連以外の全世界の最高峰のプレイヤー10人による団体対抗戦が開かれましたね」

 

 ここに副将として出場したのがボビー・フィッシャーであった。迎え撃つペトロシアンを3-1で下し、ブランクを感じさせるどころか、その実力は6歳の時から停滞を知らず尚上がり続けていることを証明したのだ。

 

 

アナスタシア「そこからはモーレツな勢いだったといいます。ザーグレブ、ブエノス・アイレス、マジョルカと世界大会に出場しては優勝を引っさげて帰還したフィッシャーをアメリカは歓迎し、また世界はチャンピオンへの挑戦者候補と目することを余儀なくされたのですね」

 

 その勢いは想像するしかないが、チャンピオンへの挑戦者決定戦でフィッシャーをまず待ち受けたのはタイマノフとラーセンであり、彼らもまたチェス史に燦然と輝きを残す紛う方無き天才である。しかし世間は若き英雄が彼らを下すことを確信していたという。

 

アナスタシア「ハラショー!とはいえ、この二人の大天才のどちらにもストレート6-0でフィッシャーが完勝、なんて結末、誰が想像できたでしょう!」

 

 

 

 ついで、最後にチャンピオンへの挑戦権の前に立ちはだかったのは、因縁のペトロシアンであった。『くろがね』の異名で鳴らした、防御を持ち味にするペトロシアンは、当時チャンピオン位を失っていたとはいえ、頂近くにいるプレイヤーの一人であった。

 

アナスタシア「ペトロシアンは、フィッシャーとの対戦後、「スパスキー・フィッシャー戦は大荒れする」と予言しました。それが、何よりも雄弁に、フィッシャーの強さを証明していました」

 

『くろがね』ペトロシアンを5-1の好スコアで下したフィッシャーに世界が否応なく注目する中、第28期世界チャンピオン決定戦の火ぶたが切って落とされる。1972年、7月11日、レイキャビク

 

 

アナスタシア「1局目はスパスキーがリードしました。ここで思わぬ誤算が起きたのですね」

 

 2局目にフィッシャーは姿を現さなかったのである。

 

アナスタシア「東のチェス・ファンは第1局で貫録を見せつけたスパスキーの仕上がりに加え、怖気づいたかとも思われたこのスパスキーの不戦勝に大いに沸きました。しかし勝負の場へと戻ってきたフィッシャーはこのあと3局を引き分け以上で手中に納め、第5局を終えて気が付いたときには、スコアは2.5-2.5と拮抗していました」

 

 

 21局を終えて、12.5-8.5のスコアで、ボビー・フィッシャーは戴冠した。

 ニクソンとブレジネフの代理戦争の様相を呈したこの世界チャンピオン決定戦のシーズン。勝ったのは、24年間のソビエト覇権に終止符を打ったアメリカの英雄だった。

 

アナスタシア「こうして防衛の日々を送ることになったフィッシャーは、防衛戦の運営についていくつかの提案をFIDEにします。その条件の中のひとつが退けられたことを理由として、フィッシャーは世界チャンピオンを返上、後任にはカルポフが就きました。これが、1975年の出来事ですね」

 

 そしてこれが、チェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーの引退であった。

 

・隠棲、放浪、そして晩年

 

 ボビー・フィッシャーはその後チェスの試合を拒否し、隠遁生活に入ったのであった。

 

アナスタシア「1970年代の彼は、新興宗教の施設で暮らしていたといいます。後に自発的にこの教団から離れるフィッシャーでしたが、狂気と紙一重の所で戦ってきた彼の精神は拠り所を必要としていたのですね……」

 

 一切のチェス・ゲームを拒否していたボビー・フィッシャーが、生前の公式引退後に世界を騒がせたことが二度ある。その一度目は、92年にボリス・スパスキーと行った再現試合であった。

 

アナスタシア「これは、ハンガリーのチェスプレイヤーがフィッシャーに『なぜもうプレイをしないのか』という手紙を送ったことに始まりました。彼女の根回しによって再現試合まで漕ぎつけられたのですが、開かれた場所がユーゴスラビアでしたね」

 

 ボスニア問題、というものが世界の新聞を賑わしていた時分である。ユーゴスラビア経済制裁措置を取っていたアメリカは、ボビー・フィッシャーにも「試合を放棄するよう」警告をしていた。同国民がユーゴスラビアで経済活動をすることを禁じていたからである。

 

アナスタシア「しかしフィッシャーはこの通告を世界に公開し、記者会見の場でこの手紙に唾を吐いて見せました。そしてマッチに参加、見事に勝利を収めました」

 

 賞金は300万ドル以上だったという。アメリカはこの件を受けて彼を起訴、アメリカ国籍の剝奪に踏み切った。こうして、彼はまた暫く表舞台から姿を消すことになったのである。

 

アナスタシア「次に、彼がメディアを騒がせたのは2004年のことでした」

 

 フィリピンへと出国しようとした、成田空港でボビー・フィッシャーは入国管理法違反の疑いで収容されたのである。

 アメリカ国籍を追われたのち、彼はハンガリー、スイス、香港、韓国、フィリピンや日本を転々とし、中でもフィリピンと日本は2000年代の彼の生活拠点であったという。

 日本では元日本女子チェスチャンピオンで、現在も日本チェス協会事務局長を務める渡井美代子氏と、フィリピンではマリリン・ヤング氏と事実婚の上で暮していた。

 

アナスタシア「この収容を受け、時のブッシュ政権・アメリカ政府はフィッシャーの身柄の引き渡しを要求しましたが、フィッシャーはそれを拒否しました」

 

 パスポートの失効、市民権の喪失という状態でのボビー・フィッシャーを取り巻く状況は非常に不透明で、世界が困惑していた。

 彼の父親の国籍があったドイツでは、ボビーの国籍を与える運動を起こす人々がいたし、日本でも、元外務政務次官でチェス愛好家であった石井一二氏や、チェスを趣味として活躍する将棋棋士羽生善治氏、また民主党榛葉賀津也氏や社民党福島瑞穂氏といった面々が彼を支援し続けた。英雄を慕う人々の温かい支援と擁護の果て、アイスランドが人道的見地から彼に市民権を与える決定をしたのが2004年11月のことだった。

 

アナスタシア「アメリカ政府もこれを認め、日本政府は2005年3月末に彼をアイスランドへと見送りました。以後は静かな余生を送ったと聞きます」

 

 この数奇な天才は、チェスによほど縁が深かったと見える。黒と白のマスの数と同じ、64歳にして、『英雄』ロバート・ジェームズ・フィッシャーはこの世を去った。彼は因縁深いアイスランドレイキャビクで眠ったのであった。まるで、また何年かしたらどこかで一騒ぎ起こすのではないか、そんな失踪と変わらぬ飄々とした死だった。

 

アナスタシア「『ボビー・フィッシャーを探して』という書と、それを基にした映画を知っていますか。あの主人公、フレッド・ウェイツキンもまた、1972年のレイキャビクでの激戦によって、チェスへと誘われた者のひとりだと述懐していますね」

 

 派手で、時に粗暴で野卑に見られたボビー・フィッシャーだったが、それは全て、彼が真実の為だけにまっしぐらに生きたシルシなのだと思う。暖かい尊敬を持って包まれた彼の晩年が、誰の理解も拒んで生きた孤独な天稟に寄り添ったことばかりを願ってやまない。

 ひとりの英雄として、また等身大の、誰よりも人間らしい人間の生き様として。ボビー・フィッシャーという、恒星とも違う流星のキセキに思いを馳せてみる夜はまだ若い――

 

 チェスは人生だ。

――ロバート・ジェームズ・"ボビー"フィッシャー

 

アナスタシア「ダスヴィダーニャ、ダフストレーチ!」

 

(続く)

 

(ナレーション・川島瑞樹 / 文・鷺沢文香)