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愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

東郷あい・和久井留美の名局解説その1[後篇](Peter K Wells v.s. Yoshiharu Habu, 2005, Essent Open R2)

和久井留美「さて、では続きを始めましょうかね」

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あい「白が9手目にNa4とナイトを逃がした局面からだね」

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(再掲Figure.1.5  9.Na4まで)

綾瀬穂乃香「ここですね」

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忍「手を考えて出たのは、『a4』、『Bb7』、『Be7』の三つだったね」

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あい「ま……結論からいうと、候補になったどの手も羽生さんは指さなかった。指したのはこれだ」

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(Fig.1.6 (Fig1.5~9.  Bd6!))

穂乃香「えぇっ」

 

忍「なんで?!」

 

穂乃香「だって、確かにキャスリングの権利は生じるけれど、このビショップには何の紐付けもされていない浮き駒になっちゃうし……」

 

あい「穂乃香くんはとてもいい感覚をしている。取った駒を打ち直せる将棋と違って、チェスでは取ったピースが使えない。たったこれだけの違いで、駒の重みが変わってくる」

 

留美「将棋がそうじゃないとは言えないけれど、それだからこそ、我々チェスプレーヤーは序盤のわずかなピースの折衝から気を使うわけよね。だから、この手を観て『駒の連携』という観点から疑問を投げかける感覚は、チェスが分かってきたことのなによりの証だと思うわ」

 

忍「だったらどうして……」

 

あい「それは、羽生さんにしかわからないさ。この手が繋いだ奇跡のような収束を知っている私たちだって、こうして並べてみれば未だに信じられない」

 

留美「確かなことは、このビショップをd6まで呼んで、hファイルまで利かせたことが、終盤の強襲を可能にした、ということだけなのよ……はぁ……これで趣味だっていうんだから困っちゃうわね」

 

あい「手の意味としては、hファイルまで利かせながら、キャスリングの権利を得て、次にBb7ないしO-Oと指してから、c5とポーンをぶつけて開戦に持ち込もう、というところだろうか」

 

留美「いったんキャスリングを入れてキングを戦場から遠ざけるか、或いはc5と突き出してぶつける手がビショップのディアゴナルを通すような味の良さを求めているのね。どちらかを入れるだけで、ぶつけるc5の迫力が全然違うわね」

 

あい「続けようか。10.  e4  だ」

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(Fig.1.7  (Fig.1.6 ~ 10.e4))

忍「この手の意味はなんですか……?一見してこのポーンもタダだし、次にNxe4と黒ナイトを跳ねさせてしまうように思うんですけど」

 

留美「これは、放置すれば次にe5がビショップとナイトのフォークになる、という手ね」

 

穂乃香「フォーク、ですか?」

 

あい「両取り、のことさ」

 

穂乃香「あぁ、なるほどです。確かにここでキャスリングとかするとe5が入って一気に形勢は白ですが……このポーンはタダじゃないですか?」

 

留美「そうね。進めてみましょう。Nxe4よ」

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(Fig.1.8 (Fig.1.7 ~Nxc4)) 

 

留美「ここで白の狙い筋、11.  Qc2というわけよ」

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(Fig.1.9  11.  Qc2まで。e4のナイトとc6のポーンにフォークがかかっている)

 

あい「これは見ての通り、フォークだ。さっきのe4というポーンのタダ捨ては、このクイーンを出るQc2がフォークになる為の犠牲手だった、というわけだね」

 

穂乃香「なるほどー……これは、ナイトを守りたいですね」

 

あい「そうだね。f5の応手は自然だね」

 

忍「で、フォークだったからクイーンを走ってQxc6かな?」

 

留美「いいえ、もっとアグレッシブに行くわ。12.  Ng5よ」

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(Fig.1.10 (Fig.1.9 ~ f5  12.Ng5 まで))

 

穂乃香「えぇっ!?これもタダなんじゃ……しかも価値の高い中央に活用したナイトなのに……」

 

忍「ってことは、きっと何か裏があるはずだねっ!むむむ……これはナイトで取らせるための手なはずだから、取ったらどうなるだろう」

 

留美「そのナイトが動いたら、どこに利きがなくなるかを考えてみたらいいんじゃない?」

 

穂乃香「あっ、d6のビショップに紐がなくなるから、そこでQxc6と入るとビショップとルークのフォークになるんだ……!」

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(Fig.1.11 (Fig.1.10 ~ Nxg5 13. Qc6 の、穂乃香の指摘した進行))

あい「……驚いたな。その通りだ、本譜もその進行だよ」

 

忍「これはルークを逃げるとQxd6が入ってもう指せる気がしないね」

 

あい「同感だ。Ne4でビショップを守ろうか」

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(Fig.1.12 Ne4)

留美「ではQxa8とルークを抜いて」

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(Fig.1.13 Qxa8まで)

あい「キングと敵クイーンが近いのが厭だね。この形をどう見るか、だ」

 

穂乃香「ここから……羽生さんが勝つんですよね?勝ち目が見えないんですが……」

 

忍「うーん。どちらも紐はついているけれどこのクイーンはナイトにもビショップにもあたっているし、間接的にキングも睨んでいて……またQc6なんて引いて来られるとかなり盤上を支配するようになるから……」

 

留美「それが当時の感覚だったわ。アマ・プロ問わずね。この形からだと、引き分けに持ち込むのも難しい、まして黒に勝ち目なんて……と誰もが思っていた」

 

あい「しかしこのゲーム、どんなに劣勢に見えようが先にチェックメイトを掛けた方が勝ちなんだ。形勢判断、なんて主観ありきの目ばかり曇らせて、誰もが忘れていた最も重要で強力で、単純なルールさ。チェックの掛かりにくい形にして、攻め倒せばいいじゃないか。ここで落ち着いて、キャスリングだ」

 

留美Qc6は良い感覚ね。隅に居るより、中央に据え付けた方が働きもいいし、後は虐められにくくなるわね」

 

あい「依然クイーンに睨まれているナイトの応援に行こうか。Ndf6だ」

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(Fig.1.14 (Fig.1.13 ~0-0  15. Qc6  Ndf6まで )

忍「これは、白が次にf3?とfポーンを突いて、e4の黒ナイトが死ぬんじゃ……?他に手も思いつかないし……」

 

あい「……まぁそう思うなぁ」

 

留美「そうねぇ……本譜の進行もそうよ」

 

あい「これに対しては、ナイトは助けようがないので、クイーンをピンしてビショップを攻めよう。Bd7だ」

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(Fig.1.15  (Fig.1.14 ~ 16.  f3   Bd7 まで))

 

穂乃香「これはクイーンを逃がしながら、ナイトも守るQa6ですね!」

 

留美「ふふっ、そうね。で、Bxa4とナイトを取って、Qxa4と交換する、と」

 

あい「カパブランカが得意とした、相手の軍縮を強いるような交換だ。おまけに、一連の手の流れの中で自然にクイーンをボードの端に追いやっている」

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(Fig.1.16 (Fig.1.15 ~ 17. Qa6  Bxa4  18. Qxa4 まで))

 

留美「ここね」

 

あい「ここだね。ここで指した手が、羽生善治の伝説になった」

 

穂乃香「f3のポーンが利いているから、ナイトを逃がしたりしたいですけど、逃げ場もないし……」

 

あい「括目、Bxh2!、これだよ」

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(Fig.1.17 (Fig.1.16 ~ Bxh2!))

 

穂乃香「なんで?!」

 

忍「タダだよ!今度こそ絶対!」

 

あい「……これは本当にタダだが、背景にとんでもない狙いを秘めた絶妙の一手だった」

 

留美「f3を突いてしまったことで、キングに対して斜めの攻めが刺さりやすくなったのを咎めているのね。g3に斜め駒が張れればウェルズサイドは非常に厳しいわ。そして、g3を守っているのはh2のポーンだけ。ならそれを取り除いてしまえばいい、と」

 

あい「これで、ナイトの方を取ろうものなら、ビショップをBg3と引いてゲームセットだ」

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(Fig.1.17.1 (Fig.1.17 ~ 19. e4  Bg3+ の、あいが指摘した進行))

留美「黒のクイーンがd4に利いているので、キングはKd1と逃げようがKf1と逃げようが厳しいわね。特に、20. Kf1は Qxd4が次にQf2までのチェックメイトで絶望的」

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(Fig.1.17.2 (Fig.1.17.1 ~ 20. Kf1  Qxd4 の、留美が指摘した進行))

あい「かといって、20. Kd1と逃げても、単なる延命措置だ。Qxd4+  に、21. Bd2 と守ってもNxe4と、d2のマスに利きを足され続けて白に勝ち目はない。将棋でいうところの、コビン攻めに似た感覚だろうか」

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(Fig.1.17.3 (Fig.1.17.1 ~ 20.  Kd1  Qxd4+ 21. Bd2  Nxe4の、あいが指摘した進行)) 

穂乃香「でも、これはビショップを取ってしまえばいいのでは……?」

 

忍「ただ、取るとルークが動いちゃうからキャスリングができなくなるよねぇ……」

 

留美「まぁ、というわけでこれは取る一手ね。Rxh2と」

 

あい「Qxd4だね。e4のナイトが利いていて、次にQf2が厳しい」

 

留美「ここでfxe4と、ナイトを切り取りましょう」

 

あい「ここで先ほどe4にナイトを利かせておいた効果だ。Nxe4が更に追い打ちになるね。継ぎ桂の筋だ」

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(Fig.1.18 (Fig.1.17 ~  19.  Rxh2  Qxd4  20.  fxe4  Nxd4 まで))

留美「これで、Mate in 10なのね……」

 

穂乃香「えぇ……」

 

あい「詰めチェスというのは詰将棋とは違って必ずしもチェックの連続で相手キングに迫らなくても良いのは知っているかな?」

 

忍「あ、はい、そうですね」

 

あい「将棋のソフトなんかで使われているMate in Nというのも、もともとチェスソフト発祥の概念だ」

 

留美「この局面からだと、まず次に黒クイーンがQg1とダブルアタックを掛ける手が悲惨ね。なのでRh1だけど……」

 

あい「ナイトが利いているから、Qf2+が激痛だ」

 

穂乃香「これは逃げる一手ですね……Kd1ですか」

 

忍「これも、クイーンがdファイルからどいたから、Rd8+でチェックが続くよね」

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(Fig.1.19 (Fig.1.18 ~ 21. Rh1  Qf2  22.  Kd1  Rd8 まで))

忍「これも逃げの一手だね、えぇっと、Kc2か」

 

穂乃香「ビショップを抜きながらQxe2+ですね!」

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(Fig.1.20 (Fig.1.19 ~ 23.  Kc2  Qxe2+ まで))

あい「この局面はキングの逃げ道がb3とb1の二箇所あるが、Kb3と逃げると次のNc5がキングとクイーン両方に当たって最悪だ」

 

留美「なのでKb1と逃げるしかないけれど……」

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(Fig.1.21 (Fig.1.20 ~ 24. Kb1 まで))

あい「ここでクイーンに当てながら、Nc3+とナイトをサクリファイスに……」

 

忍「まぁ、取るしかないですね。bxc3として」

 

穂乃香「これはbxc3と応じて厳しいですね」

 

留美「まぁ、もう必敗ね。最後の抵抗とばかりにウェルズはビショップをBa3と退かしてキングの退路を作るけれども……」

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(Fig.1.22 (Fig.1.21 ~ Nc3+  25. bxc3  bxc3 26. Ba3 まで))

穂乃香「Rb8+と追って……」

 

留美Qb3とルークの利きを切るわ」

 

忍「Qd3+がまたチェックだね」

 

留美「ビショップが退いたお蔭でKc1と逃げられるけれど……」

 

あい「Qd2+が必殺だ。ここでウェルズがリザインした」

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(Fig.1.23 (投了図。Fig.1.22 ~ Rb3+  27. Qb3  Qd3+  28. Kc1  Qd2+ まで))

穂乃香「以下は、29. Kb1  c2+で、このc2のポーンが、bファイルをルークが支配しているせいで白としてはQxc2と取れないから、30.  Kb2の一手に、c1=Q#と、プロモーションする手が、d2のクイーンとc1のクイーンのダブルチェックになっていて、チェックメイトですね」

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(Fig.1.24(詰め上がり図。Fig.1.23 ~ 29. Kb1  c2+  30. Kb2  c1=Q# まで))

あい「すごいゲームだったろう。途中なんかは、圧倒的に白の駒得だったのに、だ」

 

留美「クイーンを端に追いやり、ルークを無力化し、ビショップは交換を強いて除去し……機能性を徹底的に奪うことで、駒の働きだけで勝ってしまった様なものだわ」

 

あい「これで、少しは棋譜ならべも身近に感じて貰えたかな。後は、好きこそものの上手なれ、じゃないが、少しずつでいいから、自分たちで気になったものから、やってみるといい。幸い、この事務所はチェスも英語も出来る才媛が結構いることだし……」

 

穂乃香「ありがとうございます!とてもお勉強になりました」

 

忍「すごいですねぇ羽生さん……ファンになっちゃいそう」

 

あい「それからね、穂乃香くんが朝言っていたけれど、チェスを通して芸術的完成が養われるかというと、そういうこともあると私は思うよ」

 

留美「チェスの世界には、『すべての芸術家がチェス棋士ではないが、すべてのチェス棋士は芸術家だ。』なんて言葉もあるくらいよ。応援してるわ、頑張って」

 

あい「どうだい、留美さん。久しぶりに、一杯飲みながら対局とでも洒落こもうじゃないか」

 

留美「あら、いいじゃない?夕ご飯はごちそうになれるってことかしら?……」

 

(続く)