愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

東郷あい・和久井留美の名局解説その1[前篇](Peter K Wells v.s. Yoshiharu Habu, 2005, Essent Open R2)

東郷あい「やあ、おはようみんな」

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綾瀬穂乃香「東郷さん。おはようございます」

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藤忍「おっはようございまーす」

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あい「フフッ……今日もチェスの勉強かい?精が出るね」

 

穂乃香「はい!ありがとうございます!」

 

忍「最初はチェスのお仕事のために知っておこう、くらいのキモチだったのに、今ではすっかりハマってしまって……」

 

あい「趣味を持つのは良いことじゃないか。それが自分の仕事に誠実に向き合った結果だというならなおさらのことだよ」

 

穂乃香「こういった、ちょっと芸術的なものに触れるようになってから、自分の表現力にも自信がついた気がするんです」

 

あい「なるほど……いや、あるかもしれないね。少し、見ていてもいいかい?」

 

穂乃香「えぇ。東郷さんはチェスされるんですか?」

 

あい「昔、少しハマったことがあってね……今でもときどき、行きつけのバーなんかでプレイしたりね」

 

忍「かっこいい……」

 

あい「そんな大層なものでもないさ。……今日はふたりは対局かい?棋譜ならべかい?」

 

穂乃香「あ、まだ決めてなくて……棋譜ならべ、ってやっぱりした方が良い……んですよね?ただ、チェスは将棋や囲碁なんかと違って、間口がどうしても英語だからどんなふうに棋譜ならべのお勉強をしたらいいかというのがまだよくわかっていなくて……」

 

あい「なるほど……確かに、そうかもしれない。解説も英語だったり、そもそもプレイ人口が圧倒的に多いマインドスポーツだから、解説自体ついていないメモ起こしのような棋譜も多いしな……」

 

?????「あいさんが教えてあげたらいいじゃない」

 

あい「……なんだ、いたなら声を掛けてくれればよかったのに。留美さんも人が悪い」

 

和久井留美「今来たところよ。それで、棋譜の話でしょ?だったら、有名な対局のものを持ってきて、解説してあげたらいいじゃない」

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忍「わ、和久井さんもチェスされるんですか!」

 

留美「ふふふっ、少しだけよ。前の会社で私が秘書をやっていた社長が、インテリアで買ったはずのチェスセットからチェスにのめり込んじゃってね。よく相手をさせられたものだわ……」

 

あい「……留美さんのは、少しなんてものじゃないから、君たち騙されちゃいけないよ」

 

留美「あら、あいさんだって、ときどき触るにしては滅法負けなしじゃない……」

 

あい「ふふっ、留美さんには敵わないよ」

 

忍(オトナのオンナの趣味だ……かっこいい)

 

あい「解説……ねぇ。有名どころは幾つか思いつくけれど……さて、何がいいかな」

 

留美「さっき、英語だと敷居が高い~って話を穂乃香ちゃんがしてたわよね?」

 

穂乃香「わひゃ?!は、はい」

 

留美「だったら、あの方の『アレ』がいいんじゃない?」

 

あい「あの方のか……確かに。……ちなみに留美さんが言っているのはいつのだい?」

 

留美「2005年のね」

 

あい「あぁ……『アレ』か」

 

忍「あの……さっきからおふたり何を……?」

 

あい「私たちがこれから紹介するのは、我らが日本人プレイヤーの誇り・羽生善治氏が、定跡を書き換えた世界的に有名な一局だ。相手はイギリスのグランドマスター・ピーター=ウェルズ氏で、羽生さんは不利とされる黒番を持ち、定跡外れの一手から世界の目を釘付けにし、ウェルズ氏を下したんだ」

 

穂乃香「羽生善治……って、将棋のトッププレイヤーですよね?確か今は三冠の……」

 

留美「うん、羽生さんとしてはチェスは趣味らしいけれど……趣味でグランドマスターを破るなんて、悪趣味よね……ふふふ。じゃあ、始めましょうか。私がウェルズ側ね」

 

あい「とすると、私が羽生サイドか」

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(Figure.0 初形)

あい「初形からのオープニング進行は、1.  d4   d5  2.  c4   c6  3.  Nf3   Nf6  4.  Nc3  e6……と、セミ・スラヴ・ディフェンスと呼ばれる形だ」

 

留美「羽生さんお気に入りのオープニングね。先に3.  Nc3 などとしても手順前後でここまで行くことが多いわね。4手目黒番はe6に代えてdxc4なんて手も見えるけれど、こうするとスラヴ・ディフェンスの変化に入るわ」

 

穂乃香「なぜ初手はe4でなくd4なのですか?」

 

あい「ふむ。君はオープン・ゲームからチェスに入ったんだね。確かに、最も多く指されている形をまず押さえておくというのはとても合理的だ」

 

留美「奏ちゃんっていう優秀なコーチがフリルドスクエアにはついているんですもの」

 

あい「……なるほど、ボビー・フィッシャーってことか」

 

留美「初手e4が目指す理想形はもう説明を受けているわよね(→http://chess-rikka.hatenablog.com/entry/2017/03/22/035320)。比べるとよりわかりやすいのだけれど、初手で突いたdファイルのポーンというのは、お互いにクイーンのバックアップがある最強のポーンなのよ。お互いが1手目でdファイルを突き合ってぶつける1.  d4   d6で始まるゲームを、クローズド・ゲームというわ」

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(Figure.0.1 dファイルは最強のポーン)

あい「クローズド・ゲームは早い段階に衝突し合って、このピースとこのピースが支配する盤上の空間を巡る戦いになりやすい。1.  d4   d5  2.c4 という進行を、クイーンズ・ギャンビットというのはこのためだね」

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(Fig.0.2.1, 1.  d4  d6 2.c4まで)

留美「忍ちゃん、ここからどういう手があると思う?」

 

忍「えと……まずc4の白ポーンを抜きながらクイーンの利きを通す『dxc4』、次にビショップのディアゴナルを開けながら中央に厚みを作りd5のポーンを支える『e6』……あと、同じくd5のポーンを支える手として『c6』もあるかと思います」

 

あい「いいね。序盤感覚がよく育っている。ちなみに『dxc4』のようなポーン同士の交換は単に『dc』のように略してしまうこともままあるよ」

 

留美「dcに飛び込むと、クイーンズ・ギャンビット・アクセプテッドという激しい斬り合いの変化になるわね……このアクセプテッドはさしずめ『喧嘩上等』ってくらいの意味かしら」

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(Fig.0.2.2 Queen's Gambit Accepted)

あい「e6と突くのはアクセプテッドとは逆の感覚だね。その名の通りクイーンズ・ギャンビット・ディクラインドと呼ぶ変化だ」

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(Fig.0.2.3 Queen's Gambit Declined)

留美「declineは英語の動詞で『断る』の中でもかなり丁寧な印象の語ね。『辞退する』くらいかしら。そして、c6と突いた形が、スラヴ・ディフェンスよ」

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(Fig.1.1 Slav Defense  (1.  d4   d5  2.  c4   c6))

穂乃香「ここから、3.  Nf3   Nf6  4.  Nc3  e6と進んだのが……

 

あい「うん、今回紹介するゲームで使われた、セミ・スラヴ・ディフェンスだ」

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(Fig.1.2 Semi Slav Defense (Fig.1.1~3.  Nf3   Nf6  4.  Nc3  e6))

 留美「本譜はここから、5.  e3   Nbd7  6.Bd3  dcの進行ね。ウェルズのBd3から、メラン・ヴァリエーションと呼ばれる変化に入ったわ」

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(Fig.1.3 (Fig.1.2~5.  e3   Nbd7  6.Bd3  dc))

穂乃香「この白の5手目の、e3というのはどういう意味ですか?」

 

あい「それは、浮いているc4のポーンにf1にいるビショップで紐をつけたんだ」

 

留美「同時に黒のビショップがg5に陣を張るのを妨げてもいるのが味の良い手ね」

 

あい「最近この形は、黒が6手目にBd6とすることが多いようだ。……というのも、ひとつは羽生善治という男が趣味でこの定跡を書き換えてしまったからかもしれないね、フフ」

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(Fig.1.4 (Fig.1.3~7.  Bxc4  b5))

留美「進めてここまでが、メラン・ヴァリエーション通りの進行ね。黒のdcの為に、e4のポーンも支えていたビショップが釣り出され、そこをb5と伸びてきたポーンに攻められた形ね。b5は白のビショップに撤退を促しながら、自分のクイーン・サイド・ビショップの働きを良くしている手よ」

 

忍「あ、好形のBb7が指せる」

 

あい「……驚いた。いいセンスをしている」

 

留美「ここで手を変えたのは先手のウェルズね。8手目に白はBd3と指すのがメジャーな変化だけれど、ここで8.  Be2!  という変化を選ぶわ。敢えてマイナーな方に突っ込んで黒に読みの負担を強いて勝とうとしたのか、それとも羽生さんを見込んで応手を問い掛けた選択だったのか、気になるわね」

 

あい「対してこちらはb4と強く応じて、ナイトの行き場を尋ねてみようか。もっとも行き場など一つしかないんだが」

 

留美「ナイトを逃がしましょうね。Nb1と初期位置に戻すのはやる気がしないわね、Na4と。こういう必然の応酬は様式美ね」

 

あい「白がビショップをe2に引いたために、ナイトの行き場が限定されるこの局面だから成り立つ手だ。ナイトが他に逃げ場がある状態だとNa4は必然手ではなくなるからね」

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(Fig.1.5  (Fig.1.4~8.  Be2  b4  9. Na4))

留美「ここでふたりに考えてもらいましょうか、あいさん」

 

あい「それがいいね」

 

穂乃香「次の手ですね」

 

忍「うーん、『a6』とかどうかな?白のビショップが将来的にa6と出てキングに肉薄してくるのを防ぐ手だけど」

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(Fig.1.5.1 忍の指摘した『a6』。終盤にビショップがこういうところに飛び出してくる手は咎めにくい。先回りして受けておくのは良い手になりやすい)

留美「忍ちゃんは受けの棋風なのね。こういう手がすっと出て来るのは、相手のピースの利きがよく見えていていいじゃない」

 

穂乃香「それなら、現状ではa6は黒のクイーン・サイド・ビショップに支配されてますから、この利きを消さずにビショップを最長ディアゴナルに乗せる『Bb7』はどうですか?b5~b4と突いたポーンの顔も立ちますし……」

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(Fig.1.5.2 穂乃香の指摘した『b7』はビショップが次に最長ディアゴナルに乗る価値の高い手だ)

あい「穂乃香くんはバランス感覚を重視するようだね。もちろんそれも良い手だ」

 

忍・穂乃香「他には……」

 

留美「少し玄人好みの手かもしれないけれど、私ならBe7とか指してみたいわね」

 

あい「キャスリングの要件を満たしながらビショップの活躍を狙う一石二鳥の手だね、仕事が出来る女らしい、効率的な賢い手だ」

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(Fig.1.5.3 留美が『Be7』と動かした局面。一歩も動いていないキングとルークの間にピースがなく、チェックも掛かっていないので黒はこの状態ならいつでもキャスリングをする権利を得たと言える)

留美「あいさん、誉めても何も出ないわよ……あら、もうこんな時間……ツイてるわね、お昼代くらいは出るかもしれないわ」

 

あい「続きは昼食の後にしようか。二人とも、今日は留美さんがおごってくれるよ」

 

(続く)