愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

May the Magic of Halloween be with you. -3-

 

「うーん……よくわかりませんね」

 

 輿水幸子は、勉強机の前で、パソコンから顔を上げて天井を仰いだ。そのまま、背凭れに体重を預け、足を延ばしてくるくると回る。

 

「何が楽しいのか、わかりません」

 

 幸子が今しがたまで覗いていたモニターには、チェスの対戦画面が映っている。しかし、手番が相手の状態で、残り時間を示す数字だけが一定の間隔で減っている以外、動いているものは何もない。

 観る者が観れば、幸子が大差でゲームを押し込んだのだとわかる局面だが。

 

「ハメ手でも切れ勝ちでも、一勝の価値は一緒……ホントでしょうか。数字としては一緒でも、もっと大事なものがある気がします」

 

 幸子は、パソコンをそのままに、机の上のノートを取り上げる。そこには、次の試合に向けてのメモがびっしりと、細やかな文字で書き込まれている。外ハネを撫でながら、彼女はそのラインを頭の中に反芻した。 

 

「勝ち負けも大事ですが、見てくれている人に恥ずかしくない、ファンが楽しめるようなゲームがしたいものです。そうして、それには何よりボクがカワイく楽しまないと……」

 

 モニターの中で、相手の時間が尽きた。

 

 

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「チェスはね、この世でもーっとも、楽しいゲームなの。無限の可能性があってね……可能なゲームの数は、この宇宙の星の数より多いんだって!」

 

 白坂小梅は、目を輝かせて、誰もいない空間に語った。彼女はひとりで棋譜ならべをしているにしてはかなり速いペースでピースを移動させている。手許は良く見えないが、その姿はまるで見えない何かと対戦をしているかのようであった。

 

「最近勝てるようになってきて、いくら勝ち負けと楽しさは別だと思っても、やっぱり勝てると楽しいな、って思うんだけどね」

 

 メタルピースが澄んだ音を立てる。白いピースに指を掛けた小梅から少し離れた場所で、黒のキングが倒れた音だ。

 

「それは、自分が強くなれたシルシ、だからなのかも。この世で最も楽しいゲームであるチェスから、可能な限りの楽しさを引き出すために、努力をするんだよ」

 

 彼女の語り口は、誰かに教えるかのように、懐深げで、やさしかった。

 

 

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 このところ目にしている、自分より年少のプレイヤーたちがチェスボードの中で自我を獲得していく様に感化されるようにして、宮本フレデリカは、チェスに迷った自分を振り返っていた。そして、誰よりも深いところで通じ合ったアナスタシアのことを想う。チェスの愉しみとは、マゾヒスティックなところがあるのかもしれない。スナックスティックをつまみながら、フレデリカはそんなことを考えた。

 

 速水奏は、内在化していくことの難しさと、変容する文化へと思いを馳せる。文化も個人の営為の堆積であるのだから、「自分が楽しい様にやればいい」というのは思考停止のお題目ではないのだ、と解を慈しむように確認する。自分の楽しさは、周りのノイズによって一片たりとも傷つけられ得ないからこそ、尊いのだと。

 白い駒をいじり、ドアを閉めて出ていく奏。彼女は知らないが、その風で黒のキングが、倒れた。

 

 *

 

  楽しむことが、ハロウィン・コード。

 

 *

 

 今日は、『U-14 Halloween CHESS Tournament』、10ラウンド目の最終局だ。他の試合の結果は出そろい、あとは優勝と準優勝が決まるだけとなっている。残ったふたりの全勝者が技を競い力を較べる、大一番だ。

 今日は中継のほか、アイドルが現地で大盤解説を務めるということもあり、秋冷えの中にあって会場は試合開始前から異様な熱気に包まれた。

 

 検分を済ませ、着座して合図を待つ二人。

 白番、先手を持つのが白坂小梅。少し厚めの瞼を閉じて、まるで安らかに眠っているかのようだ。

 対する黒番、後手は輿水幸子。持ち込んだペットボトルのラベルの向きを、几帳面に揃えていく。

 アービターを務めるのは、プレイヤーよりも緊張した面持ちの松永涼だ。この日の為に、とルールを覚えたばかりの彼女の補佐として和久井留美がすぐ後ろに控えているが、その心配の視線すら、涼には届いていないかのようだ。

 

 それぞれがドラマを抱えて、ここに集ったのだ。

 

 やがて定刻が告げられ、戦士は握手を交わす。

 

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 1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Nc3 Nf6 4. Nxe5 Nxe5 5. d4 Ng6

 

小梅 (幸子ちゃんは、Ng6……そっちなんだね。困ったなぁ……)

 

幸子 (ボクだって、準備をしてきたんです!)

 

 *

 

「今日の大盤解説は、私たちトライアド・プリムスがお送りするよ。よろしく」

 

加蓮「なんか、新鮮な感じだね」

 

奈緒「幸子も小梅も、ほとんど時間を使わないでここまで進んだな!」

 

加蓮「ハロウィン・ギャンビット、ね。幸子ちゃんが1. ... e5からオープン・ゲームに乗ったのは相手の用意に乗っかる王者の一手に見えて、実は小梅ちゃんが仕掛けて来るであろうハロウィン・ギャンビットへの対策を練ってきた、ってところなのかも」

 

5. ... Ng6と躱すのは、形勢的には5. ... Nc6よりも良さそうだけれど、実戦的にお互いに難しい順になる、って『イメ読み』でこの前みんながちょうど検討してた手だね」

奈緒「大きく駒損している白としては、このまま押し切られちゃたまんないもんな!小梅がどうするのか、注目っと……」

 

 *

 

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 6. e5 Qe7

 奏は、中継に付くコメントを眺めていた。

『黒がQe7とクイーンを上がった局面では、類例を第1ラウンドの白坂小梅市原仁奈戦に求めることができる。あれは白がd5を突いた後だったので、Qe7が成立しなかった。現状、白のdポーンはd4にいるのでこれは成立し得る』

 コメントを付けているのは、第9ラウンドの白坂ー神崎戦で観戦記を書いた文香だ。そして、奏と文香は、小梅をチェスの女神に引き合わせた張本人でもあった。

 

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 7. Qe2 Ng8 8. h4 h5

『白もクイーンを上がり、ピンを外したことで黒はナイトを逃がしておいた』

 

 一手一手につけるコメントは、ひとりで連詩をするようなものだ、とかつて文香は奏に語った。テーマはまるきりの他者性に依存する中で、言葉を捻り出しては紡ぎ、戦いの美しさを、戦士の勇姿を、記録に留め、伝える。

「私は、64マスのアオイドスなのかもしれません」

 そう語った彼女の、長い睫毛に覆われた縹色の瞳を奏は思い返す。

 

『h4は黒からQh4と出る手を予め潰してある。横利きの有る駒が第4ランクに出て来るのは急所だ。幸子は端を受けた。ふたりはもう、定跡なき荒野を手を取り合って歩んでいく

 

 チェスだって、文学と似たところがある。同名の高名なチェス・プレイヤーがいるが、私たちは、アンデルセンの青春小説に登場するような、遍く盤上の即興詩人なのかもしれない。

 

 *

 

加蓮「あの子、私と同じ匂いがする……相手の手を予め奪っておくような手の価値を知ってるんだと思う」

 

奈緒「幸子のh5か。確かに、エンディングで、端を一歩一歩伸ばせるだけで指し手の幅が広がるような局面って、結構あるもんな」

 

「でも、キャスリングより前に、端を突き合っちゃうと、ちょっと端攻めの脅威が出るよね」

 

加蓮「凛、良いこと言うね。だから、たぶん小梅ちゃんはh4と突いたアドと、手の流れを活かしていずれ黒マスビショップをBg5と出てクイーンを攻めるような構想を描いてるんだと思う。こうすれば、逆サイドにロング・キャスリングの目も出て来るし」

 

奈緒「なるほど、小梅は、本当に誰よりもハロウィン・ギャンビットの形を研究したんだな……こんなに深い戦型だとは、正直思ったこともなかったよ」

 

「こだわりって、愛だよね。好きだ、楽しい、って思えなかったら、こんなに深めたり出来ない」

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 9. Bg5

奈緒「加蓮先生、手が当たりますねぇ!」

 

「ね、加蓮先生」

 

加蓮「やめてよ」

 

 *

 

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 9. ... Qb4 

幸子 (このピンは、大きい手だと思います。斜めの利きがあるピースを、八方にダイアゴナルが展開できる好位置に飛び出したのは同じですが、マイナーピースこそ立ち遅れたものの、こちらはクイーンが使えてる。……しかし、ジリジリした展開ですね。小梅さんがこの一局に入れ込む熱意のようなもの、ボクにも伝わって来ますよ)

 

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 10. 0-0-0 

幸子 (ピンを外しながらキャスリングですか。まあ、当然の一着ですね。……しかし、迂闊な手を指すといきなり形勢を損ねてもおかしくありません。先人の足跡を辿りながら冒険するのもいいですが、新雪に足跡を残していくみたいで、こういうのも悪くないですネ。まずは第一感、10. ... N8e7から腰を入れて読んでみましょうか)

 

 *

 

「これ、10. ... N8e7はいいとして、ここで白ならどうします?」

 穂乃香の言葉に、少し考える。ちょうど自分もそれを考えていたところだが、意外と白の手が広いのだ。

「ねぇねぇ、奏ちゃん。11. Qf3は?」

 立って見ているフレデリカが手を挙げて発言する。

「d5に?」

「12. ed」

「あー……ここでじゃあ12. ... Bg4だと?」

「むむ……難しいねぇ!楽しいねぇ!」

 

 *

 

奈緒「黒もキャスリングを目指しながら、引かされたナイトを前に使う10. ... N8e7は自然な手で、たぶん外れないと思うんだけどさ……このあと白はどうするんだろ?」

 

「加蓮先生が今考えてるから」

 

加蓮「穏やかな手もあるにはあるんだけど、いきなり斬りつける筋もあるかなって。私なら、だけどね。ここで11. g4と突っ掛けてみる。11. ... hgに12. h5とナイトを苛めて」

 

奈緒「加蓮の好きそうな、ジャンクな流れだなー!」

 

加蓮「なによ、ジャンクな流れってw」

 

「12. h5に、逃げずに12. ... Nc6の返しは?次にセンターに使いながらクイーンを脅かす狙いだけど」

 

加蓮「それだよねー。こうなるといきなりエンディングでも可笑しくないかなって」

 

奈緒「おやつが出る前に終わっちゃうじゃんかー!」

 

「おやつの前に、そろそろお昼だよ」

 

 *

 

 

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 10. ... Be7

『昼食休憩後、再開の一手は10手目Be7と、ビショップを上がる手だった。これは次にN8e7~0-0を狙うと同時に、白坂のBg5と威張っているビショップを睨み据える手である』

 

「いきなりBxe7と交換することはないよネ。手損だし」

「そうですね。これは長期戦になるならがっぷり四つに組んで戦おうとする手ですが、こうなると白のやる気が出るような気もします」

「蘭子ちゃんはどう思う?」

「11. Qf3で、世界はアトラスの肩の上に支えられるわ!(小梅ちゃんなら11. Qf3と上がって、バランスを取りに来ると思います~)」

「「あー……」」

 二度、三度と小さく頷くのはマキノだ。

「もう、差はほとんどなくなったように思う」

「そうね。ナイトを早々にピースダウンしたにも係わらず、駒効率による主導権の握り方が完璧だったかもしれないわ」

 

 フレデリカは忍び笑いを洩らすと、大モニターに目を遣った。

 

 *

 

加蓮「11. Nd5 Qa5 12. Qb5 Qxb5 13. Nxc7+ Kf8っていう展開があるかなって。11. Nd5は今出て来たばかりのビショップに当てて居場所を尋ねながらクイーン取りにもなってる両取りの手ね、そして更にNxc7でルークとキングの両取りを狙う手なんだけどさ」

 

「だから、c7の地点に利きを足すQa5を黒に強いる、ってことだね」

 

加蓮「そうそう。そこですかさずクイーンをぶつける12. Qb5が面白くてさ。Qxb5 13. Nxc7+ Kf8に、ここで14. Nxb5とBxb5のどちらがよいかと悩むんだよね。仮に14. Bxb5なら14. ... Bxg5+ 15. hg Rb8という展開が予想できるかな」

 

奈緒「うーん、難しいな!見てて面白いけど、あたしはどっちも持ちたくない!」

 

 *

 

小梅 (ラッキー符号、ってわけじゃないけど……蘭子ちゃんのときもこんな手が出たなぁ)

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 11. Qf3

 

幸子 (てっきりNd5と跳ねて来るものだと思ってました。これは焦る……小梅さんは、直截的な狙いが無い手が多い印象ですね。やってこい、というか。結果的に、うまく相手の力も引き出して勝つような、そんなゲームが多い気がしました。……ということで、こちらから行きましょう)

 

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 11. ... Bxg5+ 12. hg N8e7

 

 *

 

加蓮「a3と突いてみたい」

 

 *

 

「Bb5からやってみたい」とマキノが言った。

 

 *

 

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 13. Nb5 Qa5

『13手目Nb5は黒の手をQa5の1手に縛った。放置するとNxc7+のダブルアタックでゲームが終了する』

 

 いつもは率先して検討の輪をつくる奏だったが、なぜだか今日だけは、まったくの傍観者でいたいと、そう思った。

 

 *

 

奈緒「今度はさっきと違って、N8e7がd5の地点に利いてるから、Nd5と跳ねると単にエクスチェンジで終わる、ってわけでこっちに跳ねたんだな」

 

加蓮「ここでBc4は堅実な一着だけど、もっと派手な、そう、ハロウィンのパレードのように派手なものが観られるかも。かなり時間も使ってるし、そっちに飛び込むんじゃないかなって」

 

「パレード?」

 

 *

 

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 14. b4 Qxa2 15. Nxc7+ 

「ひゃー!」

 フレデリカの声が響く。

 それもそのはず、クイーンサイド・キャスリングの白はaファイルというキングの脇腹にクイーンを誘い込んでから、ダブルアタックを返し技として掛けに行ったのだ。

 

 首筋に白刃を当てられて、笑える小梅の大胆さに奏は人知れず肌を粟立てた。

 

 *

 

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 15. ... Kd8 

奈緒「これ、逃げ場はKf8じゃダメだったのか?」

 

加蓮「代えてKf8だと16. Qc3というQc5を狙いながらcファイルに展開する手が幸便だった、ってことでしょ」

 

 *

 

幸子 (お互い、かなり危ない形になりましたが……ナイトは八方桂、角にあっては働いていないも同然です!ここは手番を活かして攻めたてましょう。攻めながら、攻め繋ぎ方を考えて……)

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 16. Nxa8 Qa1+ 17. Kd2 Qxd4+

小梅 (幸子ちゃん……ナイトの密室には、ひ、秘密があるんだよ……ラビリンスへ、よ う こ そ)

 

幸子 (しまった……?!まさか、これは……?)

 

 幸子は、視界が融けてふたりきり、濃厚な息遣いの中で真っ暗な世界に叩き落されたのを感じた。

 

 *

 

『Kd2、盤上この一手にも少考で時間を使ったのは白坂らしい。輿水は王手ラッシュで迫っていく』

 

「黒の鬼気迫る猛攻ね」、とマキノは呟く。

 Ke1やBe3にはQxb4+、Kc1にはQa1+で攻め手には事欠かないという。

「Qd3を検討してみたいかな」

 あずきの発言で皆が一斉に読みに入った。ほどなくして、検討人の結論は、「Qxe5なら落ち着くものの、Qxf2+もあるし、Qxb4+ 19. Qc3 Qxe3+が自信なし」、というものだった。雲行きが怪しい。白の誘い手に乗って、同形三復の無限回廊に黒が嵌り込んだようだ、と蘭子がため息交じりに言った。

 

 *

 

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 18. Kc1 Qa1+

「これは、千日手かな」

 

加蓮「普通は、不利な黒から仕掛けるものだけど……これはハロウィン・ギャンビットだからね。白が狙ってもおかしくない」

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 19. Kd2 Qxe5

奈緒「小梅の手がだいぶ早いな……。ここで20. Bd3とかQc3は、さすがにQxg5+ 21. Qe3 Qxe3+ 22. fe b6と進んで黒が良い、よな?」

 

加蓮「私も、そう思うよ。たぶん、白から打開して良い順はない。だけど、黒も打開すれば血を流す。だから、落ち着くべきところに、二人は落ち着くんだと思う」

 

 *

 

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 20. Qg3 Qd4+ 21. Kc1 Qa1+ 22. Kd2 Qd4+ 23. Kc1 Qa1+ 24. Kd2 Qd4+ 1/2-1/2

 

 ドローが成立した。

 二人は、涼の合図で握手を交わし、簡単に感想戦をしてから、大盤解説会場へと向かう。インタビューと、発表があるからだ。

 

 ふたりの小さき戦士を出迎えた万雷の拍手は、『先後入れ替え』で後日再戦が行われる、という発表に沸き立った。実力伯仲の名勝負を、一度でも多くその目に焼きつけられるとは、ハロウィンの不思議なまやかしのようである。

 

 

 進行役としてマイクを握る川島瑞樹が、一人ずつ、インタビューをしていく。

 

「今日の戦いを振り返っての感想は、どう?」

 

幸子「正直、悔しいですね。序盤に相当無理をするハロウィン・ギャンビットに対して勝ち切れないのは、ボクがまだまだ未熟なせいですから……でも、楽しかったです。楽しめたから、カワイイってことでいいんです」

 

「カワイかった、とは?」

 

幸子「はい。一緒に楽しめるならカワイイけれど、その心を忘れてしまったらカワイくない。自分が勝って優越感に浸りたいだけなら、別のゲームでいいんです。それこそ、コンピュータ相手に他のゲームをすればいい。人とやるゲームなのだから、一緒に楽しめることが一番大事で、それが一番カワイイ、んだと思います」

 

「なるほど。では、ファンのみなさんに、次の試合に向けての抱負をどうぞ」

 

幸子「次のゲームも楽しみにしててくださいね!フフーン、ボクはいつでもカワイイんですから!」

 

「では次、小梅ちゃんにお話を伺いたいと……あれ、どうしたの?!」

 

幸子「小梅さん?!」

 

 マイクを手に瑞樹が壇の上で位置取りを替えているそのとき、小梅は走り出した。

 

 

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 言い様の無い焦りは、交感神経を走って彼女の足を駆り立てた。

 

 確かな別離の予感に身を浸しながら、疾駆の後の喘ぎに肩を揺らす。額を流れ落ちていく汗を拭うももどかしく、小梅は自室に飛び込んで、黒革の大きなカバンを取り出した。

 ぽっかりと、欠落の自覚に目を閉ざしながら、彼女は手早く、ともすれば乱雑に、チェスセットを並べていく。

 そして震える膝で立ったまま、小梅は最初の一手を進めた。

 

 夕方を少し回って終わった試合から、どれだけの時間が経っただろうか。

 年季の入り、金属製のピースには錆すら浮いた古いチェスセットの前で、棒立ちになる小梅は、部屋に一人きりでいた。

 待てども待てども、動くことのないピース。

 月の光すら、理不尽な気がした。

 

 

 青白い陶磁のような肌を、愛しさが伝っていった。

 

 

 流れる温もりこそそのままに、喪失感と、そう反する安堵感のようなものが瞼に押し寄せるのを小梅は感じていた。数多ある思索の海から、唯一と呼べる正解の手を選び取ったような充足感が、疲弊しきった彼女の躰を優しく癒す。

 

 ハロウィン・パーティの用意が出来た、と告げに来た星輝子に手を引かれ、今夜の主役は部屋を出ていく。

 

 

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 外吹く風は、もう冬のそれだ。

 窓からは、激戦を共に戦った幸子と笑い交わし、スノーフェアリーズのアナスタシアに羨望の目すら向けながら労わられ、Rosenburg Alptraumの蘭子から賞賛を受け、師とも呼ぶべきフレデリカと、奏と、そして文香に肩を抱かれ、――涼のもとへと歩いていく小梅の姿が見える。

 

 賑やかな夜は、続いていく――

 

 誰かが顔を綻ばせたような、懐かしい心地がして、白坂小梅はハロウィンの三日月と星を窓越しに見上げた。

 

(了) 

 

イメージと読みの人生観

 

 本誌2回目の企画、「イメージと読みの人生観」をお送りする。内容は、クセモノ揃いのこの事務所でも一際の曲者たちの読みの能力と独特のチェス観に迫ろうとする、有名企画のパロディである。

 今回は司会役の喜多見柚ほか、ハロウィン・イベントに引っ張りだこの安部菜々をはじめ、綾瀬穂乃香、神崎蘭子鷺沢文香、八神マキノに参加してもらった。1つの局面図を見て、6人のアイドルにそれぞれの感想や読み筋を語ってもらう。同じテーマ図を見て、同じことを言うのは分析に信頼が持てるし、各人がてんで違うことを言い出すのもまた、チェスの深淵を肌に感じられるようで一興である。

 今回のテーマ図は3つ。3名が持ち寄ったテーマ図について、各々が勝手気ままに意見を戦わせる。ひとつめは八神持参の、超最近の形。ふたつめは、つい先日話に出た、聖ジョージ防御をどう見るか。そして最後に、事務所の中でも最もホットでクールなあの形について、識者は述べる――。

 

テーマ図①

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(Figure.1 : 1. d4 d5 2. c4 c6 3. Nf3 Nf6 4. Nc3 e6 5.g3)

 

テーマ図②

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(Fig.2 : 1. e4 a6)

 

テーマ図③

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(Fig.3 : 1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Nc3 Nf6 4. Nxe5)

 

喜多見柚「じゃ、始めまーす。『イメージと読みの人生観』、2回目ですー」

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安部菜々「お願いしまーす、キャハ☆」

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「アタシと菜々さん、蘭子ちゃんが初参加で、後のみんなは2回目だネ!よろしくお願いしますー」

 

鷺沢文香「よろしくお願いします」

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神崎蘭子「いざ、魂を奮い立たせん!(宜しくお願いします!)」

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「じゃ、早速始めていきましょ。まずはテーマ図①、これはマキノさんが持ってきてくれたヤツだネ!」

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(再掲Fig.1)

八神マキノ「えぇ。1. d4 d5 2. c4 c6 3. Nf3 Nf6 4. Nc3 e6とセミ・スラヴになったときに、5. g3と突くラインなのだけど……これ、この1週間で複数回、世界の公式戦で目にする機会があって……」

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文香「今週は……チゴリン・メモリアルにユーロピアン・チームが男女あって、そうですか、FIDE公式戦目白押しの週ですか……」

 

菜々「ここで、5. g3ですか……?と、いうことは5. ... Nbd76. Bg2とフィアンケットを組むのでしょうか……」

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(Fig.1.1 : Fig.1~5. ... Nbd7 6. Bg2)

マキノ「そうね」

 

文香「セミ・スラヴといえばつい最近、穂乃香さんが自分の講座で取り上げられてましたね」

 

綾瀬穂乃香「はい、これですね。あの講座では、5. e3Bg5に絞りましたが、あの時点では最も多く指されている分かれでした」

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菜々「現代チェスの変化は日進月歩ですねぇ……」

 

穂乃香「アンチ・メランで5. e3 Nbd7 6. Qc2 Bd67. g4と突くShirov-Shabalov Gambitというのはありましたけどこれはなかなか……なるほど?」

 

「セミ・スラヴに対する白って、バランスを保ちながら0-0を狙ってBd3と出て、ここからBf5と好位置に据え付けたいなっていうのがオープニングの感覚だよネ。Qc2Bd3でバッテリーも組めるし。この黒マスビショップの活用より早く、フィアンケットを急ぐんだネ」

 

マキノ「だから、Bd3と出た時点で黒からdcと取ってぶつけて、以下Bxc4 b5まで進むことが多いのだけど……」

 

 

穂乃香「ちょっと掘ってみましょうか?局面ここで……候補手は、安部さんが推す5. ... Nbd7の他には?」

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(再再掲Fig.1)

文香5. ... Bb4とピンするのはどうでしょうか」

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(Fig.1.2 : Fig.1~5. ... Bb4)

菜々「あー」

 

蘭子「黒の操り手は、時が満ちたらb6と突いてみたいものよ……(どこかのタイミングで、黒はb6と入れてみたいです~)」

 

マキノ「そうね。白がg3としてフィアンケットを見せてる以上、黒も同じくフィアンケットを組んで対抗したいのは棋理にそぐうわ」

 

菜々「とすると、6. Bg2には0-0ですか。そして7. 0-0 Nbd7、ここで8. Qb3/Qd3とありますが……8. Qd3ならここでb6と突く感じですかね……あれれ?こうすると、2、3年ほど前に見た景色ですよ?」

 

マキノ「ちなみに8. Qd3はドロー濃厚になるから、このラインではビショップに当てる8. Qb3が推奨ね」

 

文香6. ... Ne4はどうでしょう?ピンを活かして速攻する……あぁ、7. Qc2Qa5と戦力を足しても、8. Bd2と数を受けに8. ... Nxd2 9. Nxd2で後が続きませんか。これは白がかなり有利そうです」

 

菜々「それは15年くらい前のラインじゃないですか?結局、7. Qc2に代えてQb3でも、0-0でも受け切れる、ということで廃れました……って聞いたことがあります!」

 

文香「では、黒の5手目Bb4は黒が勝ちにくい、と……」

 

蘭子5. ... dcは?」

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(Fig.1.3 : Fig.1~5. ... dc)

 

「これは6. Bg2に、6. ... b57. Ne5 Nd5 8. e4 Nxc3と進むとちょっと白が勝ちやすそうではあるけど」

 

穂乃香6. ... Nbd7もありそうですね。7. 0-0 Be7 8. e4 0-0で、これなら黒としては形勢を損なわず推移できそうです」

 

マキノ「この古い形が、何を持ってハロウィンの時期に甦ったのか、少し気になるわ……私としては、5. g3 Nbd7 6. Bg2 dc 7. 0-0 Be7 8. e4 0-0の瞬間に9. Bf4と出るラインが白として気になるけど」

 

文香「……なるほど、9. ... b5 10. d5 cd 11. ed Nxd5 12. Nxd5 ed 13. Qxd5のねらいですね」

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(Fig.1.1.1 マキノと文香の読み筋)

 

マキノ「こうなれば黒はドロー狙いしかなさそうね。これが私たちの現状の結論かしら?」

 

 

「じゃあ、お次は~……これかな?これは?」

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(再掲Fig.2)

蘭子「聖ゲオルギウスの防御陣、我が図譜よ!(はい、私です~)」

 

穂乃香「これは、聖ジョージの防御ですか……どうしてこれを?」

 

蘭子「書の女神の言霊に感化されたのよ(この前、文香さんがおっしゃてたので~)」

 

文香「あぁ……これ、ですね」

菜々「プロデューサーさん、好きですよね。蘭子ちゃんも、名前的に好きそうですけど」

 

蘭子「うむ、我が友の教えを乞いたく……!(えぇ、ぜひこの機に教えて貰いたくて!)」

 

文香1. e4 a6 2. d4 b5と進んで、白からはここで3. Nf3/Bd3の選択があるでしょうか」

 

穂乃香3. Nf3だと以下3. ... Bb7 4. Bd3 e6 5. 0-0 c5 6. c3 Nf6となるのでしょうね。6. dcだと手順に6. ... Bxc5と出られますので。どうせ3. Bd3でも、白はまっしぐらにキャスリングを目指すので大差ないと思います」

 

「まぁ、黒が勝ちやすいってわけでもないよネ。白はセンターをコントロールし、キャスリングにいち早く入って、あとはアドバンテージを狙っていく。対して黒はクイーンサイドの拠点と、速攻で作ったフィアンケットを軸にあの手この手で技をかけていく、ってカンジなのかな」

 

蘭子「つまり、これは盾に仮託された矛……!(防御、なのに白が受ける進行になるんですね!面白いです~)」

 

マキノ「まぁ、黒が受け一辺倒になることはないけれど……優秀、とは言い難いのかしら?これを相当に指し熟せる力があるなら、他のオープニングで白を相手にした方が勝ちやすいでしょうに」

 

文香「あとは好みの問題ですね。このくらいでいいでしょうか?」

 

 「最後はこれだネ!」

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(再掲Fig.3)

菜々「はーい、これナナのです!」

 

文香「ハロウィン・ギャンビットですね。今、ウチの事務所では最も注目されているといっても、過言ではないでしょう……」

 

蘭子「こ、これは……」

 

穂乃香「蘭子ちゃんは、よく戦いましたね」

 

「ネ、熱い、いいゲームだったよネ。そういえば、この形も穂乃香ちゃんの講座でちょっと触れてたよネ?」

 

穂乃香「これ、でしょうか」

マキノ「蘭子のトランスポーズしてスコッチ・ゲームにするのは面白かったわ」

 

蘭子「えへへ~」

 

4. Nxe5 Nxe5 5. d4の瞬間、黒は5. ... Nc6Ng6と逃げ場があるけど、どっちのがいいのカナ。Ng6のが位置取りは良さそうだけど、その後がすごく神経使いそう。だから、柚ならNg6をやるんだけどネ!」

 

文香「これはNg6でしょうね。確かに、スペースアドはありますが、この後も白の技を皮一枚で躱しつづける展開になりそうです。受け切って反攻できれば黒が勝ちやすいでしょうが……以下6. e5 Ng8ですが……ここで6. ... Bb4という手も面白そうです」

 

菜々「うう……こうなるともう、トリック返しの化かし合いですよ!」

 

穂乃香「見ている分には楽しそうですが……」

 

マキノ6. e5 Ng87. Bc4とか、Qe2とか……手番を活かした陣形整備でしょうけど、これはちょっと私はやる気がしないわね」

 

文香「まぁ、勝ち星の掛かった試合でこれを同格以上に投入するのは、考えもしない気がします……それは、自分が黒を持ってよくできる自信から来るのでしょうけれど……」

 

蘭子「私もまだまだ未熟であった……」

 

穂乃香「神崎さんは、将来有望ですから。今回のゲームも、とてもよかったです」

 

菜々「はらはらしましたよ~。見ていて、楽しかったです。そういう意味では、とても楽しいオープニングですよね!」

 

文香「えぇ。チェスは楽しくやるものですから」

 

マキノ「……でも、『チェスは楽しくやるべきだ』っていうのはわかるわね。極論を言えば、ホモ・サピエンスという種が繁栄するのにチェスは必要ないし、太陽系的には私たちがどのようなボードゲームをしているかなんて、瑣事でしょう?なら、私たちは自分の為にチェスを愉しむべきだと思うの。私にとっては、厖大なデータを集め上げて、最善の一手を希求したい、それが楽しさだから」

 

菜々「マキノちゃんも、そうなんですね。そうです、楽しむことが、ハロウィン・コードで、チェス・コードなんです。キャハッ☆」

 

「おっ、菜々サンが自分の出演してたイベントに掛けて締めたところで……今日はおわろっか!見てくれた人、出てくれた人、ありがとうございました。またネ!」

 

(続く)

鷺沢文香の[Koume Shirasaka v.s. Ranko Kanzaki, 2017, U-14 Halloween CHESS Tournament, Rd9]観戦記 (鷺沢文香の名局漫ろ歩き その2)

 

 連日の雨は鳴りを潜めたが、秋雨は1日降れば1度下がるとされたものである。おどろおどろしさを伴うように、外は冷え込み始めていた。それもそのはず、ハロウィンはもともとケルト人の暦で秋の終わりの日であったのだから。

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 少し前までは曼珠沙華があちらこちらで咲いていた街を歩けば、いつしか銀杏とペトリコールの匂いが立ち込める季節になっていた。肩から羽織ったストールの前を掻き合わせ、私は事務所へと急ぐ。アイドル群雄割拠のこの時代、いつだって事務所は戦地なのだが――今日は少しだけ、その意味合いが違う。

 

 気に入りの懐中時計に一瞥をくれると短針は8を指したばかりだ。対局は10時開始ということで、かなり早く来てしまったと思ったのだが、私が部屋に入室すると意外にも先客がいた。

「あ、文香ちゃん。おっはーンジェット♪」

 対局場になっているラウンジからの実況中継が観られるというモニターの調子を確認しながら、振り返った肩越しに気さくに声を掛けて来たのは宮本フレデリカだった。彼女は気を抜いて生きているように見えて、ときどき案外に思えるほどに濃やかな配慮を見せるのだ。

 二言三言、言葉を交わした後、私はソファに腰掛け、とあるゲームを振り返った。観戦記者として、細やかな予習とでも言おうか。エンターテイメント性に富んだ、劇的なゲーム。これを指していた『彼女』の楽しそうな様子が眼裏に鮮やかに甦る。そして、恐らくだが、『彼女』は先手番が決まっている今日も同じ作戦を投入するのではないか。そんな予感がした。

 

 ふと顔を上げれば、続々とアイドルが到着していた。モニターには両対局者とアービターを務める東郷あいが検分を済ませ、刻々と試合開始の時間を待っていた。

 程なくして時間となり、神崎蘭子白坂小梅がお互いの手を握り合う。

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(Figure.1 : 1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Nc3 Nf6 4. Nxe5!? まで)

 やはりというべきか、驚くべきか……実戦は、白坂がこのところ連続で投入しているハロウィン・ギャンビットとなった。これはフォーナイツ・ゲームから派生し、見ての通り、序盤でいきなりナイトを棄てるのが目を瞠るオープニングだ。棄てるといっても、ナイトというそれなりに価値のあるピースをダウンさせることで、相手のナイトを攻撃の対象としながらセンターをコントロールするという狙いがある。将棋の戦法に「鬼も倒せる」という口上の奇襲戦法『鬼殺し』という、桂馬の捌きで一気呵成に敵陣に攻め込む戦法があるが、概念は似ているかもしれない。

 なぜハロウィン・ギャンビットなのか。諸説あるようだが、この白の4手目Nxe5がわが目を疑う『トリック』のようだから、というのが個人的には最も得心の行く説明である。

 持ち時間は各2時間、切れれば秒読み60秒。時間は沢山ある様に思えるが、意外とない。ここで黒番の神崎は時間を使う。

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(Fig.2 : 4. ... Nxe5 5. d4 Nc6 6. d5 Bb4 7. dc bc まで)

 白坂は初戦から勝ち上がって来ているのだが、今まで8局を先後4局ずつ持っている。そして、第1ラウンドで市原仁奈に対して披露したのが、やはりハロウィン・ギャンビットだった。棋譜こちらにある。

 その鮮やかな勝ち筋から、後に白坂と当たる者はこのオープニングの対策を多かれ少なかれ練ることが求められたはずだが、神崎の作戦は如何。我々は息を止めるようにして着手を待っていた。

  数手進めて、神崎の作戦が明らかになった。トランスポーズでスコッチ・ゲームの派生局面に持ち込むという、極めて実戦的な作戦といえよう。実戦的というのは、ハロウィン・ギャンビットという特殊なオープニングのためだけに対処を考えるのではなく、広く応用の利く用意をした、という程度の意味だ。

 しかし、ナイト損で立ち上がった白としてはこうまでしてくれるなら、腕の見せ所があるというものである。

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(Fig.3 : 8. Bd3 0-0 9. 0-0 d5 まで)

 お互いに入城を済ませ、黒からテンポよくピースをぶつけていく。白は序盤早々にナイトを盤から下ろしている。ポイントを小賢しく稼いで積み重ねて行こうとするのは正しい選択だ。取れないポーンをぶつけることは、そのまま拠点の作成に、ひいては盤面の中央制圧に大きなアドバンテージを握ることに繋がるからである。こういう空気では大人しく最善を積み重ねても徐々に突き放されてしまうことが多いので、白番としてはなんとか返し技を捻り出したい。我々の懸念と呼応するように、白坂はちらちらとクロックを見ながら時間を使っている。

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(Fig.4 : 10. Bg5 h6 まで)

 技、というほどのものでもないかもしれないが、手筋が入った。マイナーピースを貫通するピン。この手を見てすかさず神崎は端のファイルに手を掛けた。

 神崎はどうやら、ぶつかっているピースは積極的に清算していく方針のようである。そうすれば確かに、その局面で読まねばならない変化の幅は狭めることが可能だ。しかしながら、その交換を入れてしまうことで、入れない状態では存在しなかった分岐が存在する様になった可能性もあるのが、チェスの難しさであり、また魅力なのだと思う。

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(Fig.5 : 11. Bxf6 Qxf6 12. ed Bxc3 13. bc cd まで)

 f6の地点で白からビショップを切る。次いで神崎は間髪を入れずに自分もぶつけているビショップをc3の地点で清算した。盤上この一手、という局面では神崎は思い切りよくノータイムで着手していく。対する白坂は同様の局面でも、予めその後の展開を読み込むように時間を少しずつ使っている。

 開始からほぼ1時間が経過し、黒はダブルポーンを解消しに行った。しかしながらこの順は白坂に付け入る隙を与えるも同然であった。

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(Fig.6 : 14. c4 まで)

 油断ならない狡猾な手、忍び寄る罠のような。暗闇から冷たく白い手が、首筋に伸ばされたようなハッとする手だ。――神崎としては、次に来る15.cdを指を咥えてみている訳にはいかない。かといって取らないとなると、来たる15. cdに備えて14. ... Bb7/Be6の二択が迫られる訳だが、15. cd Bxd5の瞬間に16. Bh7+!と派手にビショップを切る手が白の楽しみだ。以下は16. ... Kxh7に17. Qxd5と走れば、ビショップを刺し違えた格好ながらクイーンを中央に使って白の言い分を聞いたことになる。

 ならば神崎としてはこれを取るしかないのだが……14. ... dc 15. Bxc4の交換が入るなら、白としてはダブルポーンを消しながらクイーンのファイルが空いて、とても気持ちが良いのだ。どこで身に着けたか、恐るべしテクニックが飛び出したものである。

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(Fig.7 : 14. ... dc 15. Bxc4 Ba6 まで)

 ここで神崎はビショップを端に活用。僧正の視線の先を見れば、そこには敵の僧正が。ピースを早くからショウダウンさせ、純粋に読みの深度で相手に打ち勝とうとする、それが神崎の棋風のようだ。今はエクスチェンジ前後の形勢の見積もりなどにやや粗が目立つが、経験と技術がついて来るのが楽しみだ。モーフィのように華々しい斬り合いを持ち味とする、さしずめバーサーカーの素質を秘めているかもしれない。

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(Fig.8 : 16. Bxa6 Qxa6 17. Re1 Rfd8 まで) 

 間もなく昼食の休憩に差し掛かるだろう、それまでに形勢が大きく動くこともないはずだ。そんな甘えた安心感に罅を入れたのは、小さな黒の、ラウンジでの事件だった。

 神崎が白魚のようなその指でfファイルのルークを動かした時、控室の空気が一瞬淀んだ。終点が一緒だからといって、目的の電車を乗り間違えるのとはわけが違うのだ。トーナメントの出場制限を掛けたことで、年齢層が上のアイドルたちはラウンジにお菓子を持ち寄りながら年少組のチェスを検討したり、或いは自分たちの対局をしたりと時間を使っていた。速水と北条が盤を挟んで向かい合い、周りを宮本や綾瀬、喜多見といった面々が囲んで部屋はとても華やいだ様相を呈していた。

 モニターを覗きながら手を検討していた宮本が上げた素っ頓狂な声を皮切りに、私たちはそこにいるべきでないルークを見つめていた。本命は、Rad8。何とも形容しがたい空気のまま、対局は中断され、我々も三々五々昼食を取りに出かけたのだが、もやもやとした懸念ということすら覚束ない違和感が私の胸に蟠った。

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(Fig.9 : 18. Qf3! まで) 

 再開後に直ぐ指された白の手を見て、鋭手ね、と速水が言った。大盤解説会場から交替して戻ってきた塩見と新田が流れを追いながらサンドイッチを摘まんでいた。喜多見が白い喉を鳴らした。

 これがトップクラスのアイドル同士の対戦であれば、命取りになったかもしれない手。しかし、この緩いとすら言い切れない僅かな隙を捉えることはなかなかに難しく、的確に突けなければドロー濃厚、依然として黒の有利でゲームは推移していくものと思っていた。想えば我々の予想がモニター越しの盤面に顕現した瞬間に、流れが変わったのかもしれない。

 遠くで鶸が鳴いていた。

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(Fig.10 : 18. ... Rab8 まで)

 黒の堤に、変調、というにはあまりに小さな蟻の穴が開いたのだ。こじ開けたのは貫かれた白坂のチェス。白がQf3とダイアゴナルを当てて来たから避けたいのは人情、しかしここは怺え時だったかもしれない。なぜなら、本当の目的はーー

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(Fig.11 : 19. Qc3! Qb6 まで) 

 この白19手目こそ狙いの手だった。序盤に大きく無理をしたはずの白が、確実に追い上げて来ている。その跫は、あの瞬間、この世で最も白坂小梅の近くに居た神崎蘭子の耳にこそ、無視できない音として響いていたはずだ。

 我々は見くびった。

 ここで指す手が難しい、と話し合ったのだ。白が確実にアリアドネの糸を手繰り寄せていることも知らずに。

 いや、決して彼女たちを年齢を理由に見下していた訳では無いのである。しかし、経験にモノを言わせた私たちの、安全地帯からの検討でも確かにこの局面は難しかった。

 一感、Re7?しかし……?

 控室で検討しているトップ陣も、g3/h3のどちらが良いか、測り兼ねていた。そして彼女たちが当たり前のように語るその駒に手が伸びるのは、彼女たちが長い時をチェスセットと過ごしてきた証だったから。藹々とした空気はどこへやら、まるで自分の勝ち星が掛かっているかのように検討し合うアイドルを尻目に、私はペンを止めて祈る様に、モニターを見つめた。ここで勝ち切れれば、トーナメントという以上に大きな、そう、彼女のチェス人生にとってなにか非常に大きなものが彼女の掌に転がり込むに違いない、そんな思いが筆を鈍らせていたのだ。

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(Fig.12 : 20. g3! まで)

 痛いほどの静寂張り詰める会場に、小さな木の音が響いた。

 局面が難しくなればなるほど、それを考えること自体が楽しい。白坂の指し手はそんなメッセージを載せているかのように、我々の下に届いた。目に見えない翼が生えたように、gポーンは軽やかに、盤の上を滑った。

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(Fig.13 : 20. ... Qb2 21. Qxc7 a6 まで)

 小さく首を振って、黒が突いたのはaポーン。だがその消極性は却って賢明ともいえる局面だった。寧ろ、それ以外に手が無いのだ。北条だったらどうにかして、aファイルの僅かな可動性すら奪って勝ち切っていたかもしれない。私だったら、こういった局面で相手に読まねばならない筋を大量にぶつける。

 しかし、あの瞬間は、一貫していないようにも見える、その荒削りな勝負がとにかく――胸が詰まるほどに――愛おしかった。

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(Fig.14 : 22. Rad1? まで)

 ここはゲームとしてはやや緩かった。Rab1とぶつけて明確に良かったように思ったのだが。

 季節外れのアイスが融けるのも構わず、食い入るように画面を見つめる宮本の顰められた眉が、私の内心を代弁しているようだった。彼女の洗練されきっていないラフなエンドゲームは、即ち彼女の伸びしろを見せつけられるようで嫉妬すら、湧いたのだ。

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(Fig.15 : 22. ... Rdc8 23. Qf4 Qxa2? まで)

 私たちなら此処で問答無用にcポーンを抜いたと、鈍った筆で敢えて書き残すのだ。U-14とはいえ、彼女たちは立派なチェス・プレイヤーとして、私たちと対等だと思うからである。駒割りは互角、しかし明確に、先手が良くなっている。

 思考の海に突き落とされ、喘ぐように息を継ぐ我々はとても孤独な存在だと、いつも思う。だからこそ、勝ち星ひとつを巡って命の遣り取りをしているにも拘らず、盤を挟んで1メートル向こうに居る相手がたまらなく愛おしく思う境地も、チェスをプレイしているとあるのだ。私たちは、抱き合わせの自由と孤独を持ち寄って、モノクロームの絵を描き、白い紙に黒い音符を並べていくのが好きだ。

 だからこそ、チェスボードの前に一人置き去りにされているのに、まるで隣にいる、この世で最も大切な人に寄り添っているかのように楽しげに振る舞う白坂小梅に、ひどく異なるい想いを抱いた。血が滲むくらいに歯を食い縛り勝ちを拾おうとするスタンスばかりに重きを置きがちになっていた、自分のチェスを振り返る――。

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(Fig.16 : 24. Rd7 Rb1 25. Rxb1 まで)

 思いきりの良いピースダウン。そして、ここで20手目に彼女が自分の力で切り拓いた道が光って見える。続く25. ... Qxb1+ 26. Kg2は必然の流れだが、これで白のキングは容易に追われない形になった。悩んで、考えあぐね、自分の力で絞り出した手が、細い糸を張り巡らせるかのように精細な模様を織りなして行く。彼女が助けたピースたちが、彼女を助けに来たようだ。ハロウィン、の名が冠されたトーナメント企画だからだろうか。『墓場』と形容されることもある、ボードから降りたピースたちがボードの横に整然と並ぶ様子。そのピースの一人ひとりが私には確かに、満身で遊びを愉しんでいるようにも見えた。

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(Fig.17 : 25. ... Qxb1+ 26. Kg2 Qa2 まで) 

 27. Qxf7と潜る手を防ぐ辛抱。しかしこれには初期位置から動いていないことで2マスの推進力を未だ保持しているcポーンの躍進が、ダイアゴナルを切ながらの進軍となって幸便だ。27. c4 Rf8と進んで、明らかに黒が厳しい。神崎の顔色は冴えず、心なしか巻き毛の調子も良くないようにすら見える。艶やかな形良い唇が歪められ、そこから吐き出される歎息が、ラウンジに居る私にも聴こえるようだった。

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(Fig.18 : 27. c4 Rf8 28. Qe4 まで)

 後の先を取ろうとする、穏やかで峻烈な手渡し。こういった采配をするアイドルは、この事務所にいなかった。実戦の中で成長して行く少女たちが、自分の色を模索し、手ごたえを感じ始めているのだと思うと鼻の頭まで肌が粟立つ思いがした。戦場は平時より、人の心を速く通わせるのかもしれない。一局を通じて様々な表情を見せる白坂小梅のアイドルを確かに感じた。

 時刻は15時を回った。私たちは十時と三村が事務所で焼いたばかりの、ネコを模ったカボチャのタルトを食べながら手に汗を握っていた。おやつは対局者にも出されたようである。両者はほぼ同じタイミングで、持ち時間を使い切ったようである。ここからは秒に追われるという点で呉越同舟だ。

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(Fig.19 : 28. ... a5 29. Ra7 a4 30. c5 a3 まで)

 セオリー通りの、パスポーンの裏に回るルークが、終りの予感を奏でている。ここで白の指し手は意外と広いが、彼女の指が迷うことはないだろう。長い袖から、ピースを触るその瞬間だけ少し指を覗かせる、そんな仕草が楽しげで実に羨ましい。

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(Fig.20 : 31. c6 まで)

 まっしぐらに、敵地を目指すこのポーンは、最後まで自陣で出番を今か今かと待ち侘びていたポーンだ。勝ちに行く決意をしたのだろう。

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(Fig.21 : 31. ... Rc8 32. c7 Qe6 33. Qb7 a2 34. Rxa2 まで)

 手の込んだルーク・エクスチェンジを用意した。ピースダウンすれば白はアドで押し切ろうということだろう。黒は何とかドローに持ち込む希望に縋りたい。ドローがあるから、最後まで気を抜けないのは福音か、それとも呪いだろうか。

 それは、全ての希望が潰える時まで戦い抜かねばならないという悲し過ぎる宿命の換言ではないのだろうか。

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(Fig.22 : 34. ... Rxc7 35.  Ra8+ Kh7 36. Qxc7 Qe4+ 37. f3 Qxa8 まで)

 ルーク・エクスチェンジが確定する順に飛び込んでから実に5手後のダウンとなった。ここ10ムーブの間は、ルークを取り合う以上にやらなければいけないことがお互いあったということだろう。

 寂しいわね、と誰かが呟いた。金属製の姫フォークがティーカップと当たって、小さく澄んだ音を響かせた。

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(Fig.23 : 38. Qxf7 Qc6 39. g4 Qc2+ 40. Kg3 Qg6 41. Qxg6+ Kxg6 まで)

 なんとも寂しい話ではないか。控室では、エンドゲームに定評のある八神と新田がメイトを読み切ったと言いながら検討を打ち切った。

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(Fig.24 : 42. h4 Kf7 43. h5 Ke6 44. Kf4 Kf6 45. Ke4 Ke6 46. f4 Kf6 47. Kd5 まで)

 dファイルに吶喊するのが、相手のキングを僅かなピースで縛る為の、必然手であり、気がかりの手であった。もう継ぎ盤は動いていない。

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(Fig.25 : 47. ... Kf7 48. Ke5 Ke7 49. f5 Kf7 50. f6 まで)

 お手本通りの突き捨て。実戦で求められるのは、精緻で高い水準の基本と、少しの大胆さなのかもしれない。

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(Fig.26 : 50. ... gf+ 51. Kf5 Ke7 52. Kg6 Ke8 53. Kxf6 Kd7 54. Kg7 Ke6 55. Kxh6 1-0)

 四面楚歌と相成ったところで神崎がキングを倒し、投了の意思表示をした。長い戦いだった。

 シビアな勝敗に囚われない面白い構想、ハッとする鋭い仕掛け、荒削りな形成評価に舌を巻くような大局観。ジャック・オ・ランタンを模ったバケツにお菓子が溢れる程に詰合せられているアソートメントがあるが、まさしくそんな印象の名局だったと思う。

 立ち上がり無言の裡に拍手をした後、一言も発さないままに検討に使っていたチェスセットを初期配置にし、向き合う相手と対局を始めたのは、私だけではなかったはずだ。

 

(続く)

May the Magic of Halloween be with you. -2-

 

 

 チェスが内包するイメージ。

 まず、盤が偶数のマスからできている、というのがいい。これが、仮に一つのマスが正方形で、一辺が奇数だったとすると、チェスはインテリアとしてもっと色んな場で目にするものになっただろうから。

 右の端が白マスになるように、マントルピースの上に置く。これだけの縛りで、それがインテリアなのか、そして主人はチェスを解する怜悧な知性の持ち主なのか。そういった示唆が生じる。

 そう、イギリス人が庭に薔薇を植えることをステータスとしたように。手のかかる植物の筆頭である薔薇が庭いっぱいに咲き誇るというのは、その家が優秀な庭師を抱えていること、ひいてはそれだけの余裕のある家だということを対外的に示すシーナリーの中の演出だったのだ。

 

 速水奏は考える。人並みに書物も読むが、それ以上に彼女の知識の源泉は映画と、映画を深く理解するための背景に依存する。そのため、ぴったりと閉じられた彼女の瞼の裏では、今までに彼女が観てきた幾数もの映画がコマ送りとなって巡っていた。

 

 単なるゲームを超えた何かだと、思う。ゲームを理解するためには、ルールに精通していること以上のものは不必要だ。

 しかし、そのゲームが広く受容されてきた理由を知るためには?

 

「私たちには、所詮借り物のチェスしか出来ないのかしら……」

 

 呟くと、奏はキングを倒し部屋を出て行った。

 

 

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 『U-14 Halloween Championship』も、残すところ後2ラウンドとなった。そして、上位4名を巡る、全勝対決の2組のマッチは別日程で中継されることとなっている。

 昨日、輿水幸子が、黒番・遊佐こずえのブタペスト・ディフェンスをギリギリのところで破った試合はサイトの来場者数が100万人を超えたという。

 

 今日は、白坂小梅v.s.神崎蘭子。こちらも全勝対決だ。

 居ても立ってもいられなくなって、フレデリカは時間を潰すのももどかしく事務所に向けて出かけることにした。

 

 動画サイトでの中継と同じものが、事務所のラウンジにある大きなモニターでも見られることになっている。仕事が入っていないアイドルや待機しているアイドルは、ここでチェスを見ながら時間を過ごすのが、ハロウィン・イベントが始まってからの恒例のようになっていた。

 

「フフンフンフーン♪」

 

 鼻唄を歌いながらブラインドを開け、続いて2横指ほどの隙間に窓を開いて喚起をする。そしてフレデリカは散らかったテーブルを片づけ、モニターの調整をした。

 

 背後で、ドアの開く音がする。どうやら、他にも据わりが悪くて家を飛び出してきてしまった、気の早い同僚がいるらしい。

 フレデリカは柔らかく口角を上げて微笑んだ。

 

 

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「えへへ、今日ね……あいさんに研究会に誘われたんだ……」

 

 小梅は嬉しそうに、ナイトを跳ねながら呟いた。

 ここは女子寮、小梅の自室である。その様子を誰か他のアイドルが観たら、訝しんだことだろう。彼女の向かいは愚か、周りにも誰もいないからである。

 しかし、サイキック・パワーか何かで動かされているように、音も無く進んでくるビショップはまるでそこに誰かがいるかのようだった。

 

「『ずいぶん立派にプレイできるじゃないか』……って。えへへ。『誰かについて習ってるのかい?』なんて聞かれたなぁ……」

 

 小梅のビショップが、浮遊してきたナイトに弾かれるように倒れる。ピースがぶつかる時に、軽やかな澄んだ金属音がした。

 

「このチェス・セットも外に持って行けたらいいんだけどなぁ……ご、ごめんね?私には、ちょっと、大きいんだ……」

 

 右側に置かれた、取った黒のピースを手に取り撫でる小梅。視線の先には、大きな黒革の入れ物がある。

 

「そっか。ごめんね。研究会の日は『この子』にお家に居て貰うからね……いいよね?」

 

 そのとき、ノックの音がする。

 

「フヒ、小梅ちゃん……ごはん、行かないか?」

 

「あ、ありがとう……い、今行くね」

 

「フ、フヒ……さき行って待ってる……」

 

パタン

 

「『この子』ね、最近私と一緒にチェスをやってたら、強くなってきたんだよ♪」

 

 

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「なぁ、小梅の調子はどうだ……?」

 

「貴女、やっぱりお母さんでしょ。小梅ちゃんの」

 

 ロッカーで着替えながら、並んで涼と奏が話をしている。

 

「調子、というなら、チェスの出来は上々だと思うわよ?」

 

「そっかぁ」

 

 ブラウスのボタンを留めながら涼は思案顔をする。

 

「なんていうか、さ。メンタル的なのは、どうだ?最初は、クラブで勝てなかったから落ち込んだのかとも思ったんだ。だけど、よく考えたら、なんか違うんじゃないかって。よくわからなかったんだけどさ……それが、チェスが出来なきゃわかんない悩みだったら、アタシには相談に乗ってやれないし……」

 

 座ってローファーの踵に人差し指を入れながら、奏は可笑しそうに笑った。

 

「いいわね。私も、年が離れているのに対等に親友でいられる友達、欲しかったなぁ」

 

「あのー」

 

 二人の視線を集めたのは、部屋の対辺に置かれた側のロッカーで着替えをしていた喜多見柚だ。

 

「涼サンは、チェスは興味ないんですか?」

 

 苦笑いを口元に浮かべる涼。

 

「実は、さ。小梅が余りにのめりこむボドゲって、どれほど楽しいんだろうって思って、やってみようと思ったんだ。本も買ったんだけどさ……」

 

「続かなかったのね?」

 

「続かなかったっていうかさ、いまいちわからなかったんだよ。ルールも難しいし、なかなか覚えられなくてさ……」

 

 左手の人差し指で、顎を押し上げるようにしながら右上を見ていた柚は言う。

 

「誰かに教わるのは?」

 

「それは、なんか恥ずかしいって言うか……いや、でもそれで小梅ともっと話せるようになるならそんなちゃちなプライドに拘ってる場合じゃないか……!」

 

 何かを決めたような顔の涼に、ぺろりと舌を出して悪戯っぽく笑いかける柚。

 

「よかったら、アタシたち、フリスクがお教えします!それで、ルールを覚えて、小梅チャンにナイショで――」ゴニョゴニョ

 

「おおっ、それはサプライズでいいかも――」ゴニョゴニョ

 

 

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 アービターの合図で握手を交わした後、黒番を持つ神崎蘭子チェスクロックを押し込む。

 小梅は迷わず、eポーンを突いた。

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 1. e4

 それを見て、唇を引き目を大きく開く蘭子。彼女たちの長い一日が、始まろうとしていた。

 

 *

 

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 1. ... e5

「堂々としてるわね」

 私はこのゲームの観戦記を書く文香に話し掛ける。彼女はノートから顔を上げ、顔を綻ばせた。

「そう、ですね。黒を持ってはcポーンを突くのが流行っている昨今にあって、先手の注文に乗る貫禄の一手です」

 デジタル全盛の今日にあって、彼女の手にあるのはノートに万年筆だ。その拘りの強さも、菫青の利発そうな瞳も愛おしく思った。

 

 モニターが切り替わり、私は解説を務めるLippsの同僚、周子がいきなりボケをかますのを見た。

 

 *

 

 

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 2. Nf3 Nc6

周子「ここでは3. Bb5と出てルイ・ロペス、3. Bc4と出てイタリアン・ゲーム、そして3. Nc3と出てスリー・ナイツ・ゲームが候補に挙がる分岐かな」

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 3. Nc3 Nf6

周子「黒も力を溜めたよ」

 

美波「これで、4つのナイトが中央で向かい合いましたね」

 

周子「うん、フォー・ナイツ・ゲームってやつだね~」

 

 *

 

蘭子(懸念するは、騎士の特攻――)

 

小梅(……ら、蘭子ちゃんは、楽しんでくれる……かな?)

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 4. Nxe5

 

 *

 

美波「これは、白番で小梅ちゃんが連採しているハロウィン・ギャンビットですね。今回の企画では全部ですか?」

 

周子「んー、確か、1回だけ、不運にも突くポーンを間違えたほたるちゃんが1. ... d4とセンター・カウンターを仕掛けた試合があったじゃん。あれ以外ホントに全部だね~」

 

 

蘭子(やはり、サバトの供物……!)

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 4. ... Nxe5 5. d4

 

小梅(蘭子ちゃんは、ナイトをそっちに引くんだね)

 

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 5. ... Nc6 6. d5

 

蘭子(いざ、鉄槌を!)

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 6. ... Bb4 

 

 

美波「うわぁ、なんだかすごい手が来ましたね。……初めて見ました」

 

周子「これはきっと、蘭子ちゃん用意の手だね」

 

美波「この後はどう進むかな?」

 

周子「うーんと、白は先にナイトを切ったわけだから、黒としてはナイトを取られても駒割りとしては互角なんだよね。それなら、ナイトを取らせる間に陣形で差を付けられれば、黒のアドバンテージだけが残る。ってことで、あたしなら~7. dc bc 8. Bd3 0-0 9. 0-0と進めてスコッチにするのかなぁ」

 

 *

 

蘭子(目には目を、ナイトには、ナイトを!我が真の力を見よ!)

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 7. dc bc

 

小梅(むむむ……?あっ、なるほど、スコッチ・ゲームだ……蘭子ちゃん、私のために、準備してくれたんだ……♪)

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 8. Bd3 0-0 9. 0-0 d5

 

 *

 

美波「周子ちゃんが解説してくれた通りになりましたね。流石♪」

 

周子「でしょ?もっとこういう仕事増えてもええんやけどな~」

 

美波「互いにキャスリングを済ませてから、蘭子ちゃんが9手目d5と突いたのが現局面で、ここで時間を使ってますね」

 

周子「とってくれれば黒としては最高だけど……取らないだろな~。最近、小梅ちゃん覚醒したっぽいし」

 

 *

 

蘭子(呪縛から目覚めし僧侶の跳躍……此処は激しく)

 

小梅(ら、蘭子ちゃんはそういう棋風なんだね……相手の性格とか、考えが同じとこ違うとことか知れるのって、楽しいな……♪)

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 10. Bg5 h6

 

 

周子「ほぉ~、もう切らせるんだ」

 

美波「切らせる、とは?」

 

周子「小梅ちゃんが10手目Bg5って八方に利く好位置にビショップを出たでしょ。良い位置だけど、すぐ何かあるわけではない、と見てここで黒はこれを無視して何か手を捻り出すこともできたはず。それをしないで、h6と突いたら、この手はビショップ取りになってるから、白は次に11. Bxf6って切るしかなくなるでしょ~」

 

美波「なるほど、そうだね。……でも、ナイトと交換しないで、ビショップを逃げる、っていうのは?」

 

周子「うーん、そら難しい質問やなぁ……解説殺しやん!」

 

美波「笑」

 

周子「ないってことはないんだけど、白は10手目にc1からg5まで一息に出て行ったでしょ?だから、11手目に例えばe4とかって引くと、そこはc1から本来1手で行けた場所だから、損になるんだよね~。だから、この局面が『わざわざ黒にh6を突かせる』のが狙いだったんじゃなかったら、引かないと思う。それに、さっきもいったけど、黒は必ずしもh6と突いてくるとは限らなかったでしょ?」

 

美波「そうだね」

 

周子「だから、不確定な順なのに、引くって言うのはちょっと考えられないかな~っていうのが周子ちゃんの見解です」

 

美波「なるほど。わかりやすくありがとう♪ところで、じゃあなんで蘭子ちゃんは『ビショップを切らせる』ような手を指させたのかな、周子先生?」

 

周子「そやなぁ~……ピースがぶつかった箇所が複数ある局面って、読まないけない局面が多くなるんよね。逆に言うと、ピースがぶつかったところを予めどんどん清算しておけば、追い追い読み幅を狭めることができるんよ」

 

美波「そっか、そういうことなんだ。じゃ、みんなそうやって清算すればいいんじゃないのかな?ごめんね、いろいろ聞いて」

 

周子「美波ちゃんは聞き手なんだからいろいろ聞いてや~。んーとね、これもちょっと感覚的な話になっちゃって難しいんやけど、清算しない状態だと存在しなかったような分岐が新しく生まれちゃう可能性があって。その分岐が詰みに係わるものだったりしたら結構シリアスな問題やろ?だから、一概に清算すればいいってものでもないんよね」

 

 *

 

蘭子(ダブル・ポーンの桎梏を解き放つわ!)

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 11. Bxf6 Qxf6 12. ed Bxc3

 

小梅(13. bcにはcdと取ってくる、はずだよね?)コト コン

 

蘭子(これでダブル・ポーンは解消……)コト コンッ

 

小梅(この瞬間、ちょっと息継ぎが出来るけど……何かあるかな?何か、びっくりしてもらえるような、楽しい手……)

 

蘭子(小梅ちゃん、考えてるなぁ。油断できない相手、用意してきた順に進んだけど……小梅ちゃんのために用意してきた戦型、小梅ちゃんは楽しんでくれてるかな?)

 

 張り詰めていて、どこか穏やかな時間が縷々として流れていく。

 そして、開始から1時間が経過した、とアービターを務める東郷あいが厳かに宣言したとき、小梅の手が緩慢な様子で動いた。

 

 

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 13. bc cd 14. c4

 

周子「渋いねぇ~」

 

美波「……解説をお願いしてもいいかな?」

 

周子「んーとね、これは取らないとどうなると思う?」

 

美波「取らないって……14. ... dc以外ってことだよね。んーと、15. cdがあるから、14. ... Bb7とフィアンケットに組んで守るくらいかな」

 

周子「うん、いいね。そしたら15. cd Bxd5となるよね。このために美波ちゃんはビショップを上がった」

 

美波「うん」

 

周子「ここで、16. Bh7+!とさっきこじ開けたh7のスペースにビショップを王手で飛び込む手があるんだよ~」

 

美波「えっ?これはタダでは?」

 

周子「タダじゃないよ~。16. Kxh7に17. Qxd5と刺し違える手が良いんだ」

 

美波「なるほど、そっか」

 

周子「こうなると、クイーンを進めながら、黒のキングも流れ弾に当たりやすい位置に引き摺り出せて、白が指しやすい感じする」

 

美波「そうだね。……じゃあ、この手は14. ... dcの一手?」

 

周子「あたしは、そう思うな」

 

美波「この時に15. Bxc4として、クイーンのファイルを開けた白が良い、ってことかな?」

 

周子「その通り!つまり、どう応じても黒はやや点数を持って行かれる局面かなって。それでも黒が良さそうだけど、差を縮めて、これは渋い手だよ~」

 

 

 *

 

蘭子(う、運命の盤面……!……難しいなぁ……ちょっと手拍子だったかも……?でも、14. ... dc 15. Bxc4の瞬間は手番がこっち!魂が、猛るわ!)

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 14. ... dc 15. Bxc4 Ba6

 

蘭子(小梅ちゃんの声が聴こえて来るみたい。耳を通して、じゃなくて、もっと深いところで通じ合えるような……)

 

小梅(聞いちゃった……?今日から、お友達ね)

 

蘭子(直接脳内に……?!)

 

 *

 

 

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 16. Bxa6 Qxa6 17. Re1 Rfd8 

 

「ほろっ?」

 椅子の背の上に顎を乗せるようにして、モニターを見つめていたフレデリカが素っ頓狂な声を上げた。

『……おや?これは……いや……?』

 切り替わったモニターの中でも、解説の周子が困惑した様子の声を出している。

 私は、加蓮と検討していたボードに目を戻す。

 そう、私たち検討陣がこの局面で本命視していたのは、17. ... Rad8。

「まぁ、でも、この緩さを的確に突けなかったら、ドロー濃厚、黒やや良しでエンディングになりそうだけど」

 加蓮はやや眉尻を下げて言う。私も全面的に同意だった。この手は緩手ではあるが、何が緩いとも言い切れないレベルのものだ。その針の穴にラクダを通すような攻めを想い付けなければ、大勢は変わらないだろう。

 少しの引っかかりを覚えながら、画面の中の対局室が休憩に入ったのを合図に、私たちも昼食を摂りに出かけることにした。

 

 *

 

 休憩後、再開の合図を告げる。

 目の前で繰り広げられるのは、U-14とは思えない程に高度な対局で、眩暈がする思いがした。

 袖を左手で摘まみ、右手をクイーンに掛ける白坂小梅

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 18. Qf3

 小部屋の中に充満する空気が、弓を引き絞るように、いきなり緊張感を増した。息苦しさ感じる、世界で一番近くでこの勝負が観られる役得に私は密やかに感謝した。

 

 *

 

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 18. ... Rab8 19. Qc3 Qb6

 

「Re7とg3どっちがいいかな?」

 

 フレデリカの問い掛けに、その場で幾つかの想定局面を思い描いてみる。

 

「まぁQb2に先攻するならRe7かしら……でもg3か、なるほど……それならh3はどうかしら?」

 

「g3かh3か……難しいなぁ……これ解説しなくて済んだのは助かったわ~」

 

 解説会場から戻ってきた周子がおどけて見せる。

 

 

 

「解説はなんて言ってるのかしら?」

 

 *

 

穂乃香「小梅ちゃん、長考してますね」

 

加蓮「そうね。候補は2手かしら。Re7か、h3か」

 

穂乃香「先に敵の懐に潜る手と、自分のキングの周りを広げながらエンディングで見合いに備える手ですね。……ここでh3に代えてg3はどうです?」

 

加蓮「g3?」

 

穂乃香「えぇ、フォー・ナイツ・ゲームで、1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Nc3 Nf6 4. g3……と、いきなりg3を突くラインがあるじゃないですか。なので、損にならない手かしら、と」

 

加蓮「……あるかも。寧ろ、h3よりいいかも知れないね」

 

 *

 

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 20. g3

 痛いほどの静寂張り詰める会場に、小さな木の音が響いた。

 

蘭子(わからない……どうしよう……斬り合いは……?いや、迷わない、信じる……!)

 

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 20. ... Qb2 21. Qxc7 a6

 

小梅(aポーンを逃がしてきた。ほとんど時間を使わなかったから……予定、なのかな?でも、蘭子ちゃんはそれしか手が無い時の着手は早いし……)

 

 *

 

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 22. Rad1 Rdc8 23. Qf4 Qxa2

 

幸子「……楽しそうですね。やっぱり、楽しむ姿が一番カワイイものなんですね」

 

 *

 

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 24. Rd7 Rb1 25. Rxb1 Qxb1+

 

加蓮「迷わず清算したね」

 

穂乃香「ここで、先ほど20手目のときに突いたポーンから逃げていくんですね。突いてなかったら窒息するところでした」

 

加蓮「ここでね、26. Kg2って逃げると、ポーン・チェインに囲まれる形になって、ビショップも落ちてるこのゲームでは白のキングは攻められにくくなるんだよね。実戦的な感覚だと思うよ」

 

穂乃香「黒は一度手を戻さないといけないですよね。Rd7とQf4がf7の地点に利いているので、27. Qxf7と入られるとゲームが終わってしまいます」

 

 *

 

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 26. Kg2 Qa2 27. c4 Rf8

 

 

 

 形勢が良い側は、自然な手を指してもよくなりがちだ。だから、良い手は連鎖する。

 私は27手目c4と、不動の位置に居たポーンがa2のクイーンのダイアゴナルを切った時に、そんなことを考えていた。

 

「Rf8は悔しいですね。どこかで、とても自然にひっくり返りました」

 

 忍は、黒がテンポを失ったことを言っているのだろう。見事に、Rfd8が責められた格好になったのだ。

 

「ここよね、難しくなるわ」

 

 *

 

小梅(黒が手損をしてくれたから、Qf4は手損だけど、手自体の損得はなくなる。それよりも、ここで何かやって、バランスを崩しちゃう方がダメ。こういうときは、待つんだって、教わったんだ……)

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 28. Qe4

 

蘭子(あぁ……!またよくわかんない手が……小梅ちゃん、貴女は何を語っているの?!我が友、我が友!)

 

 *

 

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 28. ... a5 29. Ra7 a4 30. c5 a3 31. c6 Rc8 32. c7 Qe6

 

 

穂乃香「形勢はひっくり返りましたけれど、優勢になった白も勝ち切るには難しいゲームですね」

 

加蓮「そうだね。それが、黒の一縷の希望になっているのかも。こうやって、クイーンをぶつけたりしながらピースダウンからのドローを狙っていくのが黒の支配戦略になるかも」

 

穂乃香「白としては神経を使う展開になりますね」

 

 *

 

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 33. Qb7 a2 34. Rxa2 Rxc7 35. Ra8+ Kh7 36. Qxc7

 

穂乃香「次に36. ... Qd5+がチェックでありながらa1のルークも狙うダブル・アタックですが……」

 

加蓮「将棋の世界では、王手飛車とりは掛けた方が負ける、なんて言われてたりするらしいけど……ね。古典的なクイーンとポーンのエンディングになったなぁ」

 

 *

 

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 36. ... Qe4+ 37. f3 Qxa8 38. Qxf7 Qc6 39. g4 Qc2+ 40. Kg3 Qg6 41. Qxg6+ Kxg6 

「周子、どう?」

 

 私は、マキノと盤を挟んで詰みを読んでいる周子に声を掛ける。二人の手が停まっていたからだ。

 周子は、首をゆるゆると振った。銀色の前髪が哀しげに揺れた。

 負けじと、私たちも継ぎ盤を動かす。幼少組が魅せる激戦のクオリティに圧倒されながらも、最後に残る意地のようなランタンの火が、私たちの中に静かに灯った。

 

 *

 

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 42. h4 Kf7 43. h5 Ke6 44. Kf4 Kf6 45. Ke4 Ke6 46. f4 Kf6 47. Kd5

 

加蓮「これはお手本通りのエンディングの手筋よね。近接見合いを発生させてから、一見ソッポの方向に出て、相手のキングを包むように寄せていく。これは、読み切ったのかな」

 

穂乃香「加蓮さんは、もうメイトを読み切っていますか?」

 

加蓮「うん、まぁ。でも、見届けよう」

 

 *

 

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 47. ... Kf7 48. Ke5 Ke7 49. f5 Kf7 50. f6 gf+ 51. Kf5 Ke7 52. Kg6 Ke8 53. Kxf6 Kd7 54. Kg7 Ke6 55. Kxh6 1-0

 

 蘭子が疲れ切った様子で、盤上にただ一つ残ったキングを倒した。

  それを見て、小梅が頭を下げ、右手を差し出す。二人の白い手が固く握り交わされた。

 

蘭子「……準備、してきたんだけどなぁ」

 

 細かく震えている小梅の肩越しに見える、寂しそうに笑う蘭子の顔は、凄絶な程に美しかった。

 

(続く)

速水奏の映画メモ(『チェックメイト』)

 

速水奏「美嘉、今度の土曜、オフよね」

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 城ヶ崎美嘉「うん。どったの?」

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「前、美嘉が言ってたじゃない。ショッピング、行きましょ?」

 

美嘉「いいじゃんいいじゃん!あ、あとね、スイーツなんだけどさ、アタシこの前、行ってみたいお店見つけたんだ!マジ卍」

 

「ついでに泊まって行く?」

 

美嘉「え、いいの!じゃ、そうしよ!」

 

 *

 

美嘉「え、やだよ。アタシ観ないよ」

 

「却下」

 

美嘉「えぇ~……意味わかんない……他の映画じゃダメなの?だいたい、映画なら伊吹ちゃんと観ればいいじゃん……」

 

「たまにはいいでしょ。それに……小梅ちゃんに借りたからなるべく早く観て感想を伝えたいし」

 

美嘉「ひとりで観ればいいじゃん!小梅ちゃんから借りたって……ほらぁ~絶対ホラーじゃん……」

 

「そうね、本当は今夜、ひとりでゆっくり観ようかと思って楽しみにしてたのよ。だけど親友が泊まりに来るっていうから、楽しみをお裾分けしないとと思って」

 

美嘉「えぇ~……意味わかんない……ってもうディスク入れてるし!あぁ、もう!わかった!」

 

「そう、聞き分けがいい子は好きよ」

 

美嘉「アタシは奏のこと嫌いになりそうだよ」

 

「……なんだかんだ言って、美嘉ってお姉ちゃんなのよね」

 

美嘉「なんだかんだ言わなくても、アタシには妹が一匹いるよ?」

 

「飲み物淹れて来るわ、何か飲む?」

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

水奏の映画メモ

イドル・速水奏。彼女ほど、『夜』のイメージと親和性の高いアイドルもそうそういない。秘密を覆い隠すベールのような夜、少女との妖しい夜、そして大人の女の艶めく夜……

 思議な夜、ハロウィンの始まりに、この女が欠けることなど許されようか。

 本誌屈指の人気コーナー、『速水奏の映画メモ』が一夜限り、復活する。百鬼夜行が跳梁跋扈する夜、彼女が扮するものとは――

 

 (文責・鷺沢文香)

 

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 ……目が逢ったわね。考えてみれば当然なのかも。だって、私はあなただけを見ているんだから…なんて、ね。

 なぁに?この柘榴が気になるの?……それとも、唇?ふふっ。

 柘榴って、冥界の食物なんですって。冥界から死者が蘇り、祭礼に誰とも知れず加わる――こんな夜にぴったりじゃないかしら。

 

 今日紹介するのは、ハロウィンにぴったり、ホラーとチェスの融合。

チェックメイト 2009年のフランス映画よ。

 

「チェスで勝ったら、解放してやる」――その条件と共に突然、監禁されたら、どうするのかしら……?

 

 映画監督を目指す主人公、ヤニック。彼には綺麗なガールフレンドも居て、映画学校への進学も決まり……と充実した生活を送っている。

 ……ホラーとわかっていてこの演出は、今後突き落とされることに身構えてしまうわよね。だからこそ、そのオーディエンスの期待をどう裏切るかが、ホラーの導入部では問われるのだけれど。

 ここでちょっと気になったのは、彼女の家を通して少しだけ描かれる、妻に強く当たる夫の姿なのよね。伏線というには直接的な繋がりが無いように見える、このぼんやりとした縛りが全体をうまく統括する束縛要件になっているというか。フランス映画はそういうことを時々やる印象があるわ。

 

 とにかく、ヤニックはとても幸せに満ちた穏やかな日々のなかにある。彼自身もとても性格がよく、悪餓鬼に虐められている少女を助けてあげて、その少女と彼女の母から感謝をされたり、というほのぼのとした情景が描かれ――不安がどんどん掻き立てられていくのよね。

 

    ヤニックは生活の安定からかそれともその気質が安定を招いたのか、性格も優しく、悪餓鬼に絡まれている少女を助けて彼女とその母親から感謝を受けるシーンも描かれるわ。ホラー映画で性格の良いキャラクターは碌な目に合わないと相場が決まっているから、楽しみよね。

 

  自主映画を撮るために、カメラを持って街を歩くヤニック。そこへ猫が飛び出してきて、彼は気を取られ転倒してしまうの。

  そこにあった家で洗面所を借りようと訪ねるヤニック。そこはタクシー運転手の男とその一家が住んでいたのね。

  そのとき、洗面所を借り手を洗うヤニックの耳に、人間の呻吟の声が聴こえるの。声に導かれるように進んで行くと、そこには監禁された一人の男。

 

  突然の事態に動転するヤニックの元へ、銃を持った主人が戻ってくる。そして囚われていた男を撃ち殺し、一部始終の目撃者となったヤニックは監禁されることになるーー

 

 


  ここから先は、何を語ってもネタバレになる。そして、ミステリーホラーの趣を示す本作に対して、それ以上に無粋で不敬なこともないように思うの。
  なので私は、この作品に重要なファクターとして存在する、『ふたつのチェス』について、述べることにするわ。

 

  ひとつが、鍵となる『主人とヤニックとのチェス』よね。監禁されたヤニックは、兇行の目撃者であるにもかかわらず殺されない。それは、この主人は『悪人しか殺さない』という極めて透き通った、歪んだ義侠心から殺人を犯しているからなのね。だから、都合は悪いが、悪人ではないヤニックを殺すわけにはいかない。しかれども、解放するわけにも行かないわよね。そこで主人がヤニックに提示した条件が、『チェスで自分に勝ったら、ここから解放する』というものなの。
  主人は不敗のチェス・プレイヤー。そして、少し背景的な知識になるのだけれども、西欧においてチェスに優れていることは、単なるボードゲーム上手に留まらず、極めて優秀な頭脳と勇敢な胆力を示している証拠だ、と見る向きがあるのね。カスパロフが政治に担ぎ上げられたように、わかるでしょう?だから、この異常性と義侠心の間でサイコな兇行に手を染めるこの男も、単なる異常者と言い切れない。チェスの背景にまで計算が及んだ、精緻なフランス映画だと思ったわ。

 

  もうひとつが、『人間チェス』。
人間、といっても、『猫を抱いて象と泳ぐ』に出てきたような、生きた人間を使うわけではないの。
  そう、ピースは死体。黒のピースは、タクシー運転手の男が成敗した悪人の、そして白のピースは、善人とされる人間の墓を掘り返して得た死体。
  彼は悪を裁きながら、この凄惨なチェス・セットが完成する日を待っているーー

 


  このふたつのチェスを巡りながら、『善人』である闖入者の登場によって、『悪人』の営んでいた穏やかな生活が掻き乱されていく、という、とても変わった監禁ものとなっているのが本作の特徴。
  最後は、警察に保護され事なきを得たヤニックのカットなのだけれど。彼は精神をやられてしまっているの。そして、いつまでも、頭の中でタクシー運転手の殺人鬼と対戦し続けているーー



 「ところで、タイトルにもあるチェックメイトはいつくるのかしら……」と思ったとき、ハッとしたのよ。私はもう術中にハマっているんだって。
 人の心を閉じ込める――そんな妖しいチェスの魅力が、ここに生きて来るのよね。
 チェスに人生を捧げる、というのは見方を替えれば、チェスに人生を破滅させられるということでもあるのかもしれない。

  私たち日本人にとっての囲碁や将棋といった棋道とも違う、たとえば信仰のような、もっと生活基盤や民族性といったものの深部にまで達したチェスの根を垣間見た。そんな気分になったわ。
  残虐性の描出を遍く含むホラーテイストな映画は、オーディエンスに鮮やかで色濃い生の実感を賦与してくれる。


  ハロウィンの不思議な夜に託けて、偶には、こんな映画もいかがかしら。

(続く)

May the Magic of Halloween be with you! -1-

  

 遠慮がちな様子で、しかし決然と飛び込んでくる馬の嘶きが聞こえるようだった。

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 4. Nxe5!?

 14歳以下のアイドルたちがチェスを指す企画、『U-14 Halloween Championship』。あの人も、文香も、酔狂なものを考えたものだ、と速水奏は肩を竦めると、またモニターに目を戻す。

 幸いにも、ここはアイドル・プロダクション。部屋も、カメラも、用意することは容易い。

 だが、この人気はどうだろう。動画サイトを通しての中継は、リアルタイムで観戦者の数がわかり、コメントが付いて流れるようになっている。ここまで見通していたというのは有能を通り越しもはや呆れる思いだ。

 

(いや、違うかもしれない。企画だけではない。アイドルたちの一生懸命な姿が望まれた結果なのかも……ね)

 

 奏が見つめるモニターに映し出されるのは、チェス・ボードを挟んで正対する二人の少女。そして、白番・白坂小梅が放った奇手を期に、コメントと観戦者の数が跳ね上がった。スイス・ドローを採用した、お遊びとはいえ大会形式のこの企画。すべてを占う船出の第1ラウンドに小梅が持ってきた作戦は――

 

「ハロウィン・ギャンビット、か……」

 

 もうすぐ、秋が終わるのだ。

 

 

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 暗くした部屋に浮かび上がるモニター。そこには、DVDの再生メニューが表示されている。

 今しがた観終わった映画の余韻を引きずるように、そのメニューに視線を置いたまま、ソファに並んで腰かけた二人の少女が話している。

 

「んー、なんだか滅茶苦茶で後味が悪かったなぁ。ホラーって言っても、小梅の趣味じゃあまりなかったかな?その割には、結構面白そうに見てたけどさ」

 

「そ、そんなことない、よ?……チェスのシーンとか、よかった……」

 

「あー、そうか?そうかぁ……お洒落感はあったけど、アタシにはよくわかんなかったなぁ。小梅は何が気に入った?」

 

「うーん……ひ、人の心を閉じ込めちゃうくらいのゲームなんだよね、チェス……どんなゲームなんだろうって……」

 

「ほー……そういや、事務所にチェスにハマってるのがいたな……やってみる?」

 

「……や、やってみたい!」

 

「こんど話してみようかね」

 

「りょ、涼さんも、やる?」

 

「うーん、考えておくよ」

 

 少女は立ち上がってディスクを抜出すとケースにしまい、次のディスクを取り出した。

 

 

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 文庫から栞を抜き、軽い音を立てて閉じながらると、少女の長い前髪が少しだけ浮き上がった。

 

「チェス、をやってみたい……ですか?」

 

「あぁ、いや、アタシじゃないんだ。小梅がさ。この前チェスの出てくる映画を観て、痛く感動したみたいでさ」

 

「それ、ホラー?」

 

 カップを持つ左手の、立てられた小指を向けるように、隣に座っていた少女が訊ねた。二人は涼の言う『チェスにハマっているの』の中でも指折りの手練れである。

 

「は、はい……『チェックメイト』っていう、フランスの……」

 

「へぇ……チェスが出てくるホラー……気になるわ。今度観てみようかしら」

 

「じゃ、じゃあ、こんど持ってきます……!」

 

 奏はマグカップをテーブルに置くと、逆の手の人差し指を細い顎に当てる。少し勢い込んで答える小梅に、奏は優しく微笑んだ。

 

奏「あら、ホント?ありがとう」

 

「……え、えへへ……誰かと、映画の話ができるのは嬉しいし……」

 

 その様子を目を笑わせながら観ていた涼は、話を纏めるように言った。軽く打ち鳴らした手をそのままに、拝むようなふりをして見せる。 

 

「そんなわけで、さ。ふたりは最近ほかのアイドルにもチェスを教えてるみたいだし、頼めたらなあと思ったんだ」

 

「いいわよ。ね、文香?」

 

「……私も、ぜひ」

 

 即答と快諾。未知なるゲームへの関心と、気に入りの娯楽を共有する愉しみが交錯した。

 

「ホントか、良かったなぁ、小梅!……アタシは今日レコだからこの後行かないといけないんだけど、じゃ、また。……大丈夫だよな、小梅?」

 

「……う、うん……」

 

「大丈夫よ、取って食いやしないわ。私は」

 

「「……え?」」

 

「まぁ、じゃ、よろしく頼むよ。今日はありがとう」

 

「なんてことないわ。レコーディング、いってらっしゃい」

 

 ゆるゆると手を振り涼を見送ると、さっそく手帳を出して三人は予定を段取りし始めた――

 

 

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「チェスボードは……必ず向かって右の端に白のマスが来るように置きます」

 

「み、右の端……こう、かな」

 

「そうです。では、今度はピース、駒を並べてみましょうか――」

 

 小梅は肩の後ろに感じる柔らかい温もりとふわりと香るシャンプーの匂い、そしてときどき触れる文香の冷たい手と、目の前に広がる精緻なモノクロームの彫刻群に、自分が二段飛ばしで大人になっていく心持ちがした。

 

 * 

 

「チェスにはいくつか、特殊なルールがあるのだけど……これはそのひとつ。キャスリングって言うわ。動かしてごらん」

 

「キャ、キャスリング……こう?」

 

「そうよ。キングの側でやるならそう、そして」

 

 印象よりも大きい奏の右手が、小梅の対面で二つのピースを踊るように操る。

 

「クイーン側でやるなら、こう。やってみて」

 

 見様見まねで、奏と線対称になるようにピースを動かす小梅。

 

「……こう?」

 

「そう。それが、キャスリング。もう一度やってみましょうか。ここで気をつけなきゃいけないのは、必ずキングを先に動かさないといけないってことで――」

 

 自分の指で弄り、動かす小さな人形は、小梅にとって化粧品や香水瓶のような、自分の踵を少しだけ高めてくれる秘密のアイテムのようだった。

 

 *

 

「小梅ちゃんはどーしてその手が良いと思ったの?」

 

 対面に座る宮本フレデリカが覗き込むようにして小梅に訊ねる。両の肘をテーブルにつき、手のひらに顎を載せるようにして、にこにこと微笑むフレデリカ。

 

「え、えと、これはここのポーンが、前に出るから……ま、真ん中から、前に出て行くのがまず大事だって……」

 

 考え考え、小梅はいう。目をつぶって何度も頷くフレデリカは楽しそうだ。

 

「なーるほど!センターをね、コントロールするんだね!その考え方、ばっちり!……でも、もっといい手はないかな?あるいは……悪くならない手!」

 

「悪くならない……?」

 

 この人は本当に、楽しそうにチェスをプレイする、と小梅は憧れにも近い思いを持って目の前のフレデリカを見た。

 

「たとえば……取り返せずピースを取られちゃったら、一方的な損だよね?」

 

 小梅は言われて、慌てたようにチェスボードに目を凝らす。

 

「あ……」

 

 そして、小梅は今まさにフレデリカのポーンに取られようとしている自分のナイトを指さし、困ったように顔をあげてフレデリカを見つめた。

 フレデリカは、ふんわりと笑った。

 

 

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「ああ、この前はありがとう。あれから、小梅はどうだ?」

 

 部屋に入ってきた奏を見つけ、涼は声をかける。奏は制服姿で、涼はTシャツにスウェットという出で立ちだ。汗を掻いていないところから、これからレッスンなのだろうと奏は踏んだ。

 

「貴女、小梅ちゃんのお母さんなの?」

 

 揶揄う奏とまゆ尻を下げる涼の様子を見ながら、寛いでいた文香が奏の背中越しにいった。

 

「……吞み込みも早いですし、頑張っていると思います。ただ……」

 

「ただ?」

 

「私のこと、呼んだ?」ガチャ バタン

 

「呼んでないぞ」

 

「そっかー」バタン ガチャ

 

「実戦経験が思うように積めないっていうか、相手がいないのよね」

 

 学生鞄をソファに置きながら奏が言う。涼からは彼女の髪の分け目しか見えなかった。

 

「相手?」

 

「……そうですね、セオリーを教えることも、指導対局もできるのですが、チェスは将棋と違って基本的にはあまり駒を落として対戦する、というのをしないゲームなので……」

 

「ふーん、ゲームの内容はよくわからないけど、つまり同じくらいのレベルの相手と切磋琢磨できないってことで、いいのかな?」

 

「そうね」

 

「……それは、どうすればいい?」

 

 眉根を顰めて聴く涼には、人には言えないシリアスな秘密があった。チェスにどんどん興味を示していく小梅を見ているうちに、自分も彼女とプレイをしてあげられないか、とこのゲームのルールから覚えてみようとしたのだ。だが、どうにも肌が合わないものがこの世にはあって、それは意外と身近にあるのだと涼は痛感していた。

 

「同じくらいのライバルがいるのが一番いいのでしょうが……年少の子たちで、彼女が始めたのを皮切りに何人かチェスを始めた子はいますが、スタートも呑み込みも早い分、まだまだ相手がいない感じで……」

 

「あとはチェスクラブ、とかかしら」

 

「碁会所みたいな?」

  

「ふふ、そんなものかな。私たちはもっぱらネットだけど、近所にもあるじゃない」

 

 絶句し固まる文香と、くすぐったそうな笑い声を上げる奏。

 

「なるほど、ありがとう」

 

 二人は無言のうちに、遠ざかる涼の足音を聞いた。ドアが閉まる音が部屋に遠慮がちに響いた後、奏がポツリという。

 

「……連れていくのに、マクドナルド1回賭けるわ」

 

「……では、私もそれで……」

 

「……」

 

「「ふふふっ」」

 

 顔を見合わせて、どちらからともなく二人は笑った。

 

 

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「ねぇねぇ、フレデリカとハロウィンって似てると思わない?」

 

 滑らせるようにルークを動かすフレデリカのネイルには、可愛らしくデフォルメされたゴーストが遊んでいる。

 

「……はて」

 

 フレデリカの指が黒のルークから離れると同時に自分のキングを逃がす文香。その様子を、食い入るように文香の横に立った小梅が見つめている。

 

「えー!だってフレデリカも五文字変えればハロウィンだよ?」

 

 ポーンを突き出すと、フレデリカは右手を開いて文香に示した。長い指が少し反り返る。

 

「原形」

 

 くるりと手のひらを返し自分の方に向けると、小指から順番にリズミカルに数度、指を折った後にフレデリカは小梅の方を向いた。

 

「小梅ちゃんはどう思う?」

 

「え、えと……に、似てる?」

 

 小梅は話を聞いていなかった。

 

「ほう、愛いやつ~♪では、キミにはこれが終わったら、フレデリカ・ギャンビットを授けよう。トリック・オア・オランジェット♪」

 

 小梅は話を何も聞いていなかったのである。

 

「は、ははー……?」

 

 戸惑う彼女を尻目にふたりは素早く二度、三度と手とピースを動かし、どんどんボードの上からピースを下すと、軽く拳を打ち合わせたのちに右手を握り合った。そして何事もなかったかのようにピースは初期配置へと戻っていく。

 ナイトの向きを調節しながら、文香が言った。

 

「ハロウィン・ギャンビットですか……いくら私でも、フレデリカさんにピースダウンで勝つのは厳しいのでは……?」

 

「は、ハロウィン・ギャンビット……!?」キラキラ

 

 これが白坂小梅が、その運命的な言葉を初めて耳にした瞬間であった。

 

「そ、ハロウィン」

 

 そういうと二人は無造作にも見えるほどの速さでピースを動かす。

 

「こうやって出た手が、相手をびっくりさせるからハロウィン・ギャンビット、だよ」

 

 白いピースを操る文香が、『有り得ない』ような手を指した。

 

「え……え?!……え?」

 

 文香とフレデリカは視線を絡み合わせると、同時に口角を上げた。悪戯っぽく笑いながら、更にゲームを進めていく。

 早々のピースダウンにも関わらず、黒のピースはどんどん自陣に押し戻されていく。その様子は、切り込み隊長となって死んでいった騎士の亡霊が相手に呪いをかけたかのようで、小梅は瞬時にこのホラーなオープニングと、ギャンビットを仕掛けた鷺沢文香の熟達したスリラーな技に魅せられていたのである。

 二人にこの世にも奇妙なラインの種明かしを受けたとき、思えば小梅はもう騎士の霊に憑りつかれていた。

 

「そ、それ、教えてほしい……!」

 

 白坂小梅はその名前に惹かれ、また、なんとも大胆なナイト・エクスチェンジから始まるそのラインに憧れた。そして彼女は密か自分こそ、このオープニングを指さねばならないのじゃないかと、少女特有の強迫観念にも似た思いを抱きすらしていたのだ。

 

「あまり実戦的とは言えませんが……」

 

 そう言いつつ立ち上がり、椅子に座るよう手で示す文香。促されるまま座ると、ピースを並べ直してフレデリカは小梅に笑いかけた。

 

「楽しければいいんじゃないかな~」

 

 今日も、フレデリカはふんわりと笑った。  

 

 

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「まず、4手目Nxe5がダメだったね」

 

 そう、目の前に座る男は悦に入った様子で歌うように言った。

 

「こんな序盤にナイトをタダ捨てするなんて、まともじゃないよ。ここからはずっと有利だと思ってた。……まぁ、キミはチェスを始めて日が浅いのかもしれないが、こんな手はないって覚えといた方がいい」

 

 上機嫌で捲くし立てていく男に比して、白坂小梅はしょげ返っている。その撫で肩が心持ち普段よりも悄然としているのを、壁を背に立つ松永涼は少し気掛かりな面持ちで見遣った。

 

 二人の休みの予定があった日の夕、涼と小梅は事務所から程近い場所にあると調べたチェス・クラブの戸を叩いた。時間単価いくら、で貸し出されている会議スペースのような場所だったが、雰囲気が違うのはあちらこちらに林立したチェスセットの所為であろうか。

 受付で申し込みを済ませ、小梅は対局スペースへ、そして涼は壁際に立ってその様子を見守ることにした。平日だというのに、ちらほらといる自分と同じく壁を背に所在なさげに立つ大人たちは、子どもの付き添いだろうか、と涼は推量した。

 

 デビュー戦を終え――もっとも、事務所で高位のプレーヤーたちから予め実戦形式のレクチャーを受けていたので、対局前の握手に始まり、チェスクロックを用いて対戦、終わったら感想戦をするという流れにも小梅にとって目新しさは何もなかったのだが――小走りに駆け寄ってくる小梅の表情が優れないのを涼は見て取った。しかしまぁ、一戦でも勝てればその顔も晴れるだろうと、そのときは気にしていなかった。時計を見遣り、まだ余裕のあることを確かめて涼は小梅の頭を優しく撫で、再び戦場へと送り出す。心機一転、勢い込んで受付へと駆けていく小梅。

 

「4. Nxe5。こんなことをしているんじゃ、勝てないと思いますよ」

 

 上目遣いに申し訳なさそうに、しかし決然とした口調で前髪の長い少年は小梅に言った。

 

「こんな手は聞いたことがないわ。チェスは将棋と違って駒を打ち直せないんだから、序盤でロスしたら取り返せるわけがないでしょうに」

 

 中年の婦人はやや困ったような顔で小梅にそう告げた。

 

「ナイトのタダ捨て、ね。馬鹿にされてるのかと思ったよ。何が悪かったかなんて言わんでもわかるだろう」

 

 ゲームが終わってからたっぷり5分ほど、むっつりと押し黙っていた恰幅の良い禿げ頭の男は、吐き捨てるようにそれだけ告げると荒々しく椅子を引いて立ち上がり足早に去っていった。

 

 項垂れる小梅の肩に、優しく温もりが置かれた。顔を上げれば、思案顔の涼が立っている。

 

「そろそろ、帰ろうか」

 

 小梅は黙って頷いた。

 

 

 

 押し黙ったまま道を歩く小梅を横目に収めながら、涼は「まぁ、勝てない日もあるだろう。調子が悪い日だってあるさ」と慰めた。

 しかし小梅の頭は別のところにあった。実際、誰かと対戦できること自体は小梅の喜びにして楽しみだったので、勝ち負けは二の次であったからである。彼女の頭を支配していたのはもっと別のこと――靴で踏みつけられ、唾を吐き掛けられたハロウィン・ギャンビットであった。文香やフレデリカといった、敬愛するプレーヤーが自分のことを担いだとも思えず、しかし披露してみれば『そんな手はない』『こんなラインは聞いたこともない』と言われる。そのジレンマで小梅は苦しんでいた。

 

 そして何より、彼女が一番気落ちしていたのは、相手といっしょにゲームが楽しめない、そんな試合もこの世にはあるのだと知ったことであった。

 

 

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「あら、変なオープニングなんてないわ。マイナーなオープニングというものはあるけれど……」

 

 話を聞いた奏は間髪を入れずに言った。鼻を鳴らす様子は、何かに対し怒りを抱いているかのようだった。

 

 

「……マイナー・オープニングだって、強いこだわりと確かな経験、そして豊富な研究で戦うプレイヤーはいくらでもいます。たとえば、フレデリカさんは黒番でフランス防御を使いますし、うちのプロデューサーさんは聖ゲオルギウスの防御が得意です。1. c4から世界ランク3位に上り詰めた人もいます」

 

 感情を見せずに、文香は語った。整然と、証拠を提示しながらである。しかし思慮深さを感じさせる、その伏せった青い瞳はどこか寂しげであった。

 

 

 小梅は、自分の好きな人たちとボードを囲めればそれ以上は望まない、と思い直すことで落ち着きを取り戻したかのように見えた。

 心のどこかに、蟠りを抱えたまま。

 

 

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 ホラー映画を見るのが好きで、お化けや怪談といった類に目のない彼女の噂は狭い業界で独り歩きし、やがて一本の仕事を連れてきた。

 彼女にオファーを持ってきたプロデューサーは、仕事の内容について事務的な面持ちで話をした後、口調を変えて小梅を案じた。

 

「の、呪いの館……?気になります……」

 

 曰く、長らく人が住んでいなくて、荒れ果てた洋館のロケだという。この館は人こそ住んでいないものの、今の持ち主ははっきりしている。では手入れをするなり何なりすればよいのだが、そこで呪いが絡んでくるというわけだ。

 

「処分できないお屋敷……」

 

 現在の管理人が相続した際、気味悪がって早々に更地にしようとしたのだが、着工した解体業者では不幸が相次いだ。二度、三度と重なるうちに悪名高い屋敷の工事を引き受ける業者はいなくなってしまった。

 困り果てる管理人のもとに舞い込んできたのは、取材の申し出であった。怪談や呪いといった話を取り上げる特番のスタッフからであった。全国的に有名になれば、この屋敷を潰してくれるという業者も出てくるかもしれない――そんな一縷の望みを託しながら取材の許可を出した彼だったが、現場で撮影隊に事故が相次ぎ、映像はお蔵入りとなったのであった。

 そうなると、今度は単独取材に成功した、という名声を求めて数々の番組がこの地を訪れた。結果は、惨憺。

 

「き、危険?大丈夫、プロデューサーさん。も、もしかすると、『この子』みたいに、悲しい子が残ってるのかも……」

 

 ああでもない、こうでもないと躊躇っていた小梅のプロデューサーであったが、彼女の強い意志を秘めた顔つきに、渋々とこの話を受ける旨を番組クルーに連絡した。

 

 *

 

 管理人だと名乗る老人は、小梅一行を気の毒げな表情で出迎えた。

 

「危ないことがあったらすぐに引き返すと、そう約束してほしい」

と撮影隊にしつこいほどに彼が忠告した後、恐る恐るといった雰囲気の中でロケは始まった。

 小梅と、それからプロデューサーの懇願で急遽の起用となったアイドル・鷹富士茄子がゆっくりと歩いていくのを、カメラが追いかけていく。

 

「ご、ごめんね。大丈夫、私たちは、邪魔しに来たわけじゃないの」

 

 時折足を止め、中空に向かって優しく声を掛ける白坂小梅。その様子を姉のような表情で観る鷹富士茄子。いわくつきの洋館を取材していると思えぬほど柔らかい空気に撮影現場は包まれていた。

 管理人の先導で奥へ奥へと進んでいく一同。今は荒れ果てて見る影もなかったが、造り自体はとても立派な屋敷であった。古い大きなピアノには蜘蛛の糸が張り巡らされ、縁に手の込んだ彫刻が施された姿見は埃が積もりくすんでいた。芸術的な括れを持つシャンデリアはもう幾十年と明かりを灯したことがなく見えて、その下にある大きな一枚板のテーブルは誰かを持て成すという使命を忘れてしまったようだった。

 時間の止まった洋室で、舞い上がる埃に窓から入る光がレンブラント光線のように空間を切り裂く。ある部屋で小梅は、古ぼけた両袖机に置かれたアンティークのインテリアに目を止めた。

 

「小梅ちゃん、どうしました?……あら、これは」

 

 足早に近づき、小梅の肩越しに覗き込んだ茄子は、それが年季の入ったチェス・セットであることに気が付いた。

 

「ご主人は、チェスが趣味だったのかしら」

 

 茄子の呟きを聞きとがめた老人は答える。

 

「この館は、私の祖父が勤めていました。私も彼から、主人の唯一といっていい趣味がチェスで、そしてそれは相当な腕前だったと、まるで自分のことのように誇らしげに語るのを聞かされたことがあります。主人のひとり息子もまたチェスが好きだったようですが、彼はまだ幼い頃に熱病で……」

 

「まぁ、それは」

 

「……埃が被ってない」

 

 食い入るように見つめていた小梅が、そう小さく呟いたのを聞いた者はいなかった。彼女だけが、何層にも堆積した砂っぽい埃に塗れたデスクの上に、錆ひとつ浮かせることなく置いてあるチェス・セットの様子に気が付いたのであった。

 

 *

 

 ぐるりと館を一周する間、クルーが床を踏み抜いたり、プロデューサーが虫に怯えたりといった細やかなアクシデントはあったものの、撮影は恙なく終了した。前評判とは打って変わっての、いたって穏やかなロケだったことに誰もが肩透かしを食らったような顔をしてほっと息を吐いた時である。

 

「……小梅ちゃん?」

 

 白坂小梅の不在にいち早く気が付いたのも、茄子であった。慌てる彼女を筆頭に、手分けして姿の見えない小梅を探し回る一同。ここにきて忽然と消えてしまうなんて、と悪い予感がそれぞれの頭を過っていた。

 呼びかけても答えない彼女に次第に焦燥を募らせる一同であったが、そのとき茄子の頭にティンと来るものがあった。駆け出す彼女を慌てて大人たちも追いかける。

 

「小梅ちゃん!」

 

 振り返った小梅は、果たして彼女の予想通りに、チェス・セットの前にいた。安堵する茄子とプロデューサーと対照的に、何かを考え込むように皺の深い顔を曇らせる管理人の姿があった。

 

「心配しましたよ、小梅ちゃん」

 

「ご、ごめんなさい。……この子が、待っててくれたから」

 

 その言葉を聞いて、一度、二度と顎を引き深く頷く老人。そして、意を決するように切り出した。

 

「お嬢さんさえよければ、なのだが……このチェスセットをもらってやってはくれませんか」

 

 素人目に見ても鋳物の人形たちに、厚みのあるチェッカー模様の板は高級そうに見えて、彼女のプロデューサーは横で戸惑ったが、小梅は少し微笑んで老人を見つめた。

 

「私は少しだけ、囲碁を嗜むのですが……やはり、道具は使われてこそ、だ。それに、こんなにもこの館に穏やかな空気が訪れたのも久方ぶりのこと。貴女さえよければ――」

 

 *

 

 帰り道を走る車の後部座席には、大事そうに黒皮の鞄を抱きしめる白坂小梅と、それを微笑ましく見ている鷹富士茄子の姿があった。

 彼女たちは後日、風の噂で、件の館が処分されたと聞いた。

 

 

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 貰って帰ったチェスセットを丁寧に磨き、一人で並べてみる小梅。改めて磨く必要もないほど、長い時間を打ち捨てられていたとは思えない輝きを人形たちは放っていたが、自分の作った人形に魂を込める人形師のような面持ちで彼女はひとつ、またひとつとクロスでメタルピースを磨いては並べていった。

 

「ふふ……つ、付いてきちゃったんだね」

 

  顔を綻ばせると、小梅は白のeポーンを2マス進めてから、食事を取りに部屋を後にした。帰ってきた小梅は、同じくeポーンの進められたボードを見つめる。

 不思議な対局の日々が始まった。

 どれだけ考えても、辛抱強く待ってくれるこの相手が小梅はすぐに好きになった。事務所に行って奏や文香、フレデリカたちに習ったことを、家に帰って小梅はすぐに彼と試した。

  そうして場数を重ねるうちに、どうやら『彼』は、このチェス・セットの前から動かないらしい、と小梅は気が付いた。どこに行くのもついてくる『あの子』に対して、『彼』は小梅がその場を離れると、じっと彼女の帰りを待っていた。

 

 *

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 3手目にして互いのナイトが跳ねるこの形は、フォー・ナイツ・ゲームと呼ばれる。合戦を前にして、整然と佇む騎士が凛々しい陣形だ。小梅は束の間の逡巡の後、顔色をうかがうような手つきで、チェス・クラブの戸を叩いて以来プレイを封印していた手をそっと指した。

  1. Nxe5

 

 誰かを否定することのない、そして誰かに否定されることのない――それは勝ち負けの形なのだろうか。

 小梅は初めてチェスの手ほどきを受けた日に憶えた感動と楽しむ心を、いつしか自分が忘れていたことに、気が付いた。

 

 

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 時を同じくして、あの日が彼女がチェス・クラブで戦い最初で最後に日になったようだ、と聞いたフレデリカと文香は秘密裡に動いていた。

 

 彼女たちはまた、小梅がチェスを始めたのをきっかけとして、年少のアイドルたちにせがまれるままにチェスの手ほどきをしていた。その合間を縫って練った企画の概要を、秘め事を話すように、文香はプロデューサーに打ち明けた。

 

「ハロウィンに託けて……チェスのイベントを開いてみたいと思うのですが……」

 

 チェスを続けるうえで最も大切なもの、それは楽しむ心だと、普段の感情を表に出さない様子はどこへやら、熱の入った様子で語った文香にプロデューサーの心は動かされる。

 

 美食の国・フランスでは、味覚教育を通して、児童たちはお互いの個性という概念を体得するという。

 幼い時分に誰かと自分が、『違うけど同じだね』と笑い合える機会ほどかけがえのないものもない、とフランスにルーツを持つフレデリカは述べた。

 

 ふたりが盤を挟んで過ごしてきた時間の濃密さや、培ってきた形而上的な何かを思いやる様に、夜の帳が降りて行った。

 

 

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 二人は握手をして微笑み合う。いそいそと支度をする市原仁奈と対蹠的に、先手を引いた白坂小梅は落ち着いている。アービター塩見周子の合図で、仁奈がチェスクロックを押した。

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 1. e4 Nc6 

 ゲームは小梅のe4からニムゾヴィッチ・ディフェンスのオープニングを迎えた。

 

「手が広いわね……」

 

「そうですね」

 

 声に振り返ると、唇が触れるほど近くに、文香の顔があった。

 

「あら、いたの。言ってくれればいいのに。危うくキスするところだったじゃない」

 

「……別に、奏さんなら……してもいいんですよ……?」

 

 思わぬ切り替えしに奏は瞠目する。そして内心の慌てを押し隠すように、良い女は煙に巻いた。

 

「……ふふ、キスは、お・あ・ず・け。今はそれよりも、あっついものを――」 

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 2. Nc3 Nf6 3. Nf3 e5

トランスポーズして、フォー・ナイツ・ゲームになりましたね……」

 

「まぁ、小梅ちゃんが、オープン・ゲーム以外をやるところを見たことが無いから予想の範疇でしょう?」

 

「そうですね」

 

「見て。今これだけの人が、この対局を見てるんだって……。不思議なものよね。一番観戦数が多いのは……っと、やっぱり蘭子ちゃんと幸子ちゃんのところは多いのね」

 パソコンの画面を指差す奏。第1ラウンドは一斉対局で、各部屋のマッチが別々に中継されている。

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 4. Nxe5

 

「ハロウィン・ギャンビット、か……」

 

「驚きましたね」

 

 奏は、跳ねあがるモニターの数字から目を切り、ふてぶてしさすら見せる文香の横顔を見遣った。

 

「……そのわりには、あまり驚いていないようだけど。貴女って、ホント食わせ者だわ」

 

「ふふ、お褒めにあずかり、光栄です」

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 4. ... Nxe5 5. d4

 驚いた様子でしばらく考え込んだ後、後手の仁奈は恐る恐るといった様子で小梅のナイトを取った。

 

「まぁ、これは初めて見たら困るわよね……」

 

「この後ですね。彼女はまだ、自分の中の葛藤と戦うことに精いっぱいです。そこを超えて楽しめるかどうか――」

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 5. ... Nc6 6. d5

 ナイトを犠牲に、小梅はどんどんと仁奈陣を押し戻していく。戸惑いを表情に露わにしながらも、懸命に考える仁奈。涼しい顔をした小梅は足をぶらぶらとさせながら、考えることそれ自体が楽しそうであった。

 

「ねぇ、この後、時間ある?」

 

「はい、大丈夫ですが……」

 

「一局、付き合ってよ」

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 6. ... Ne5

 Nb8、と初期位置に戻されるのは損だと見てか、仁奈はキングサイドにナイトを集める。

 

 「これは……」

 

 「白の攻めが続くわね」

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 7. f4 Ng6

 d,e,fポーンを手順に展開しながら、ダブル・ナイトを僻地に追いやることに成功した白。

 

「すかさずeポーンを突くわよね」

 

「えぇ。……その次の手ですか。かなり研究したんでしょうね……」

 

  二人はこの短手数の間に小梅が張り巡らせた罠に思いを馳せる。

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 8. e5 Qe7

「やはり……」

 

 そう、白のキングをピンすることで9. efを間接的に防ごうという、自然に見えるこの手こそが罠であった。

 

「当然、彼女は気づいているわよね。まさか……」

 

「それはないでしょう」

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 9. Qe2 Ng8

「筋に入った、って言うのかしら?将棋だったら」

 

「そうでしょうね。恐ろしく冷静で沈着なクイーンの楯でした」

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 10. d6 cd

 ゆっくり時間を使いながら、着実に仁奈のキングを追い詰めていく小梅。雑念などない、思考の海に揺蕩っているかのような心やすさすら感じさせる。

 僅か10手、されど10手。ゲームは早くもエンディングを迎えている。

 

「このd6は痺れるくらい気持ちの良い手だわ」

 

「d5のマス目を空けたのが本当に価値が高いですね……」

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 11. Nd5

 自分で空けたマスに残る1基のナイトを跳び、引き摺り出したクイーンを切りつける。

 

「ここから白が勝つ順は幾つもありますが……」

 

「心配しなくても、互いを称え合える、素敵な順をあの子は残してくれるわ」

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 11. ... Qd8 12. Nc7+

「ほら、ね」

 

「これは鮮やかですね……この手に辿り着くまでに、どれだけ孤独を歩んだことか」

 

 なるほど文香が溜め息を洩らす、鮮やかな決め手であった。12. ... Qxc7と取る手には13. edと予めぶつけておいたポーンを清算した手が目から火の出るダブルアタックになる。

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 12. ... Ke7 13. ed+

 ディラックの海では、全世界が固唾を呑んで小梅のか細い指が描き出す、美しく重層的なコンビネーションの旋律に耳を傾けていた。

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 13. ...  Kxd6 14. Ne8+

「今は亡き半身を求めるかの如く……よく働くナイトでした」

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 15. Kc6 Qb5#

 

  リズムを掴んでからは、強手の氾濫。緒戦を鮮やかに勝ち切り、モニターの中から存在感を印象付けた小梅は晴々とした笑顔で、敗戦の痛手もどこへやらコンビネーションに感激する仁奈と感想戦を始めた。 

 

「ハロウィンって、捨てたものじゃないわね」

 

「……それもそうでしょう。ハロウィンが終われば、ケルトの民は厳しい冬を耐え抜く日々を迎えたのですから」

 

「そっか。ハロウィン、楽しまなくちゃ……でしょ?」

 

(続く)

 

 

 

第11回 綾瀬穂乃香の早わかりチェス講座[オープン・ゲーム > フォー・ナイツ・ゲーム]

 

 こんばんは。記録的な台風が来ていたとのことですが、皆さま大丈夫でしたか?

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 さて、台風一過の今日は、前回までのクローズド・ゲームは一旦置いて、オープン・ゲームに戻ろうかと思います。

 再三のことにはなりますが、オープン・ゲームとは、1. e4 e5で始まるゲームの総称でしたね。この『早わかりチェス講座』でも、イタリアン・ゲーム、ルイ・ロペス、そしてキングズ・ギャンビットなどを今まで見て参りました。

 

 今日紹介するのは、1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Nc3 Nf3と進んだ局面を基本形とする、フォー・ナイツ・ゲームです。

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(Figure.1 Four Knights Game : 1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Nc3 Nf6)

 2手目までの応酬は、ルイ・ロペスやイタリアン・ゲームと全く同じですね。白からクイーンズ・ナイトも跳ね出し、3手目にしてすべての騎士が中央に会合することから、この形はフォー・ナイツ・ゲームと呼ばれています。入り組んだ、派手なゲームになることが多いイメージです。

 基本図(Fig.1)からは、4. Bb5/d4/Bc4g3という手がよく指されていますね。多い順で、g3となるとBb5の1/5程度まで採用は減りますが。順に見て行きましょう。

  • 4. Bb5(Spanish Var.)

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(Fig.1.1 Four Knights, Spanish Var. : Fig.1~4. Bb5)

 4. Bb5に始まるラインは、スパニッシュ・ヴァリエーションと呼ばれていて、フォー・ナイツの中でも最も人気のあるラインですね。このスパニッシュは『スペインの』、程度でしょうか。理由は追い追いわかりますよ。手の意味としては、ルイ・ロペスと同じくキャスリングの権利を手中に収めながら、好位置に白マスビショップを出た、という感触です。

 黒の応手はBb4/Nd4/d6/c5くらいでしょうか。

 ここで4. ... Bb4という黒が指した局面がとても面白いんです。

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(Fig.1.1.1 Four Knights, Double Ruy Lopez : Fig.1.1~4. ... Bb4)

 これは、ダブル・ルイ・ロペスと呼ばれています。そうなんです、スパニッシュ・ゲームとはルイ・ロペスの別名でしたね。(Fig.1.1.1)のこの形は、さながら白も黒も、ルイ・ロペスを仕掛けたような形に見えることから来ています。フォー・ナイツはナイトが先陣切って出撃した分、互いに攻撃力もありますが、相手からナイトを攻撃目標にされるという表裏一体の駆け引きの中で進行するのでスリリングなゲームになりがちなのですね。

 ルイ・ロペスの復習をしていくのもよいでしょう。ルイ・ロペスは第4、5回と2回に分けて取り上げましたね。こちらです。

 ここで5. Bxc6といきなりマイナーピースのエクスチェンジに飛び込む順もあるのですが、最近は見ない印象がありますね。次いで、5. d3とeポーンに紐を付けながらセンターコントロールを目指す手がありますが、これは直前の4. ... Bb4がわざわざピンになるような手ということもあり、この場面では5. 0-0キャスリングをするのが現在は圧倒的に多いです。白から仕掛けないのであれば、と黒も追随し、5. ... 0-0とお互いにキャスリングを済ませたところで6. d3と突くのが最近の進行ですね。ここで少し前は6. ... Bxc3と黒からピースダウンを狙ったものですし、この指し方は今もあるのですが、替えて6. ... d6とあくまで対称形を崩さないように指すのが流行りで、こちらの採用例はBxc3の3倍近くに上ります。この手でシンメトリカル・ヴァリエーションと呼ばれます。

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(Fig.1.1.2 : Four Knights, Symmetrical : Fig.1.1.1~5. 0-0 0-0 6. d3 d6)

 以下は7. Bg5と白が出まして、ここで7. ... Bg4という黒がシンメトリーに拘る指し方は10年ほど前に廃れました。7. ... Bxc3と黒が手番を握りに行って、8. bcQe7と出るのが多いですね。メトガー・アンピンと呼ばれるラインに入ります。

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(Fig.1.1.2.1 Metger Unpin : Fig.1.1.2~7. Bg5 Bxc3 8. bc Qe7)

 unpin、とは「ピンを抜く」というくらいの意味ですね。メトガーはドイツの棋士の名です。クイーンを良い位置に据え付けることで、第8ランクの風通しもよくなり、ルークの活用を図ったりする選択肢も出て来る局面となりました。

 ここで2年くらい前までは9. Bxc6と白も負けじとナイトを切り飛ばすラインも指されていましたが、最近は見なくなりました。9. Re1とeファイルを補強する手には、ぶつかっている駒を緩和すべくNd8と引き上げ、10. d4 Ne6と進めて、黒は返す刀でビショップをキングサイドから攻め返します。11. Bc1と引かせてからc5とポーンストラクチャーを組みつつ、好位置のビショップを続けざまに追い返すのが黒がマイナーピース・エクスチェンジで手番を握ってからの狙いでした。ここで引場が難しく、12. Bf1しかない、というのが世界の見解のようです。9. Re1はここで狙われにくいf1にビショップを引いてくるための手でもあったのですね。

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(Fig.1.1.2.1.1 : Metger Unpin~9. Re1 Nd8 10. d4 Ne6 11. Bc1 c5 12. Bf1 まで)

 白のピースは第1ランクに犇めいているので発展が悪いように見えますが、よくみれば実はそこまででもないです。しかし、実際の形勢が計算機的にどうであれ、黒の方が手を作る方針が立ちやすい局面かな、とも思いますね。

 

 7. Bg5に替えて7. Ne2と当たりを解消しながらクイーンズ・ナイトの活用を図る手はマロツィ・システムと呼ばれるラインです。

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(Fig.1.1.2.2 Maroczy system : Fig.1.1.2~7. Ne2)

 狙いは次に8. c3で黒の黒マスビショップを攻める手ですね。以下は7. ... Ne7 8. c3 Ba5 9. Ng3 c6 10. Ba4 Ng6と進んでここでまた鏡の迷路に迷い込み、11. d4と戦いの火蓋を切る手に11. ... Re8とeポーンに利きを足す進行が一例です。

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(Fig.1.1.2.2.1 : Maroczy system~7. ... Ne7 8. c3 Ba5 9. Ng3 c6 10. Ba4 Ng7 11. d4 Re8 まで)

 aファイルにビショップを引いて攻撃陣形を組み立てるのって、なんだかカレン・マキノ・アタックに通ずるところもある気がしたりして、まだまだ奥が深そうなラインだと個人的には感じています。ナイトとビショップとが綺麗に左右に分かれた状態なので、ここからどうコンビネーションを目指すか腕が問われますね。

 

 

  • 4. d4(Scotch Var.)

 4. Bb5に替えてd4スコッチ・ヴァリエーションですね。

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(Fig.1.2 Four Knights, Scotch Var. : Fig.1~4. d4)

 4. ... ed5. Nd5と跳ねる手はややレトロな雰囲気で、最近は5. Nxd4と思い切りよくナイトを捌いてしまう方が好まれています。続く5. ... Bb4には更に弾みをつけて6. Nxc6と切り飛ばします。以下6. ... bc 7. Bd3 d5 8. ed cd 9. 0-0 0-0 10. Bg5 c6 11. Qf3と続くのが一例でしょうか。

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(Fig.1.2.1 : Fig.1.2~4. ... ed 5. Nxd4 Bb4 6. Nxc6 bc 7. Bd3 d5 8. ed cd 9. 0-0 0-0 10. Bg5 c6 11. Qf3 まで)

 

  • 4. Bc4(Italian Var.)

 4. Bc4は、イタリアン・ヴァリエーションと呼ばれます。

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(Fig.1.3 Four Knights, Italian Var. : Fig.1~4. Bc4)

 スパニッシュがルイ・ロペスと同じ位置にビショップを出たなら、こちらはイタリアン・ゲームと同じ位置にビショップが来ているのを確認してくださいね。イタリアンの回はこちらです。

 ここで黒の応手としては4. ... Bc5/Nxe4/Bb4などありますか。

 4. ... Bc5と出た局面は、ジオッコ・ピアノフォー・ナイツ・ヴァリエーションですね。

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(Fig.1.3.1 Giuoco Piano, Four Knights var. : Fig.1.3~4. ... Bc5)

 トランスポーズして見知った局面にするのも、実戦的には有りだと思います。フォー・ナイツとジオッコ・ピアノやルイ・ロペスは非常に感覚が近いと言えます。

 

 4. ... Nxe4とする手は一見するとただのように見えますが、5. Nxe4 d5と進めたこの両取りを狙ったものです。

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(Fig.1.3.2 : Fig.1.3~4. ... Nxe4 5. Nxe4 d5 まで)

 ここで白からは5. Bxd5Bd3の手がありますが、これは黒の勝率が非常によい変化なので、こちらに飛び込むなら大人しくジオッコ・ピアノにトランスポーズさせる方が白としてはやりがいがありそうです。

 

 4. ... Bb4には先ほどダブル・ルイロペスで見たように0-0d3、またa3として居場所を問うのも有力だと思います。段々と、局面での候補手が見えるようになってきたのではないでしょうか?

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(FIg.1.3.3 : Fig.1.3~4. ... Bb4 まで)

 

  • 4. g3

 4. g3はフィアンケットを狙いながら、展開によってはエンドゲームでここからキングがぬるぬると上にでることもあるでしょうね。4. ... Bc5にいきなり5. Bg2とフィアンケットを組んで攻勢を築きます。特徴は、他の形がBd3からキャスリングを狙いに行ったのに対して、この形ではフィアンケットからキャスリングを見るので、序盤ではビショップが攻めの対象にされにくいという利点でしょうか。

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(Fig.1.4 : Fig.1~4. g3 Bc5 5. Bg2 まで)

 

 

 更に付け加えると、4. Nxe4というのが面白い手です。

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(Fig.1.5 Halloween Gambit : Fig.1~4. Nxe4!?)

 ミュラー・シュルツ・ギャンビットライプツィヒ・ギャンビット、または『ハロウィン・ギャンビット』と呼ばれます。シーズンなので、これに少し触れたいという思いもあって今日はフォー・ナイツ・ゲームを取り上げたのです。

 ここから4. ... Nxe4 5. d4は必然進行でしょうか。

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(Fig.1.5.1 : Fig.1.5~4. ... Nxe4 5. d5 まで)

 これはイタリアン・ヴァリエーションに4. ... Nxe4サクリファイスとはわけが違います。だって、正真正銘の『タダ捨て』ですから。

 候補手は5. ... Ng6/Nc6とありますが、5. ... Ng6には6. e4とすかさず突きますね。そうなんです。ハロウィン・ギャンビットの狙いは、ナイトをいきなり損する代わりに、黒のナイトを追い払い、どんどん初期配置に推し戻しながら盛大にセンターに模様を張ろう、というものなのです。なので、当然5. ... Nc6には6. d5と突きます。続く6. ... Ne5には7. f4と突いて、どんどん黒のナイトを攻撃しながらポーンをセンターに送り込んでいくのが白の主張、という訳ですね。奇襲チックで、面白い戦法だと思いますが、白が無理している感じは否めないですね。打ち直しのできる将棋とはわけが違いますから。白が仕掛けて来た時の最善ですか?うーん……最後に提示した順が黒としては最も良いとは思いますが、この順を選ぶにはかなり精密な差し回しが要求されるので、実戦的にはどうでしょう、腕に自信があったら……という感じでしょうか?

 何にせよ、チェスは楽しみながらやるのが一番です。こんなエキセントリックなものもあるんだよ、というくらいに思って頂ければ。

 

 今日はここまで。楽しむことがハロウィン・コード。皆さま、よいハロウィンをお過ごしください。綾瀬穂乃香でした。

 

(続く)