愛とは、全人生をかけてアイドルにチェスを教えること。

フリルドスクエアと行く、奥深いチェスの旅。

『モノクロームの煉獄』Rd.7 ~noli me tangere~

第1話 via dolorosa

第2話 casus belli

第3話 suum cuique

第4話 tempus fugit 

第5話 annus mirabilis

第6話 aliis si licet, tibi non licet

 

 

1.c4e52.Nc3Nf63.Nf3Nc64.g3d55.cxd5Nxd56.Bg2Nb67.O-OBe78.a3a59.d3O-O10.Be3Be611.Na4Nd512.Bc5Bd613.Rc1h614.Nd2Rc815.Ne4b616.Nxd6cxd617.Bxb6Nxb618.Rxc6Rb819.Nxb6Rxb620.Qc2Qb821.Rxb6Qxb622.Rb1Bb323.Qd2Rb824.Rc1Be625.Rc2d526.h4a427.Bf3Qd428.e3Qb629.d4e430.Be2Qb331.Kg2g632.Bd1Kg733.Qc1Qb634.Rd2Bd735.Qc5Qxc536.dxc5Bc637.Kf1Kf638.Ke1Ke539.Rc2Rb540.Kd2d441.exd4+Kxd442.Be2Rxc543.Rxc5Kxc544.Ke3f545.g4Kd546.gxf5gxf547.Kf4Ke648.Bc4+Kf649.b4axb350.Bxb3Bb551.a4Ba652.Bd5Bc853.Bc6Ke654.Bb5Kd655.Bf1Kc556.Bh3Kb457.Bxf5Ba658.Bxe4Kxa459.Ke5Kb460.f4Kc561.f5Bc462.f6Bf763.Bf5Kc664.Be6Bg665.f7Bxf766.Bxf7Kd767.Kf6Kd668.h5Kd769.Kg6Ke770.Ba2Ke871.Kxh6Kf872.Kg6Ke773.h6Kd674.h7Kc575.h8=QKb476.Qd4+Kb577.Bd5Ka678.Qc5

 

 

「奏はどうして、いつもひとりで抱え込むの」

 遠い昔、同僚だったアイドルにそう問われたことがあった。

 別に、ひとりで抱え込んで悲劇に酔いたいわけじゃない。ただ、わかってもらえないことだけがわかっているから、結果としてそうなるだけなんだって。

 

 ステイルメイトなんだ。動くことができないように仕向けたら、それはこちらの落ち度なんだって。

 わかっている、つもりだったのだけど、ね。

 

 *

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 追い詰められ、いつもの飄々とした態度を剥奪された周子が焦燥あらわに問いかける。

「ねぇ、奏に……奏にとってアタシは……同じ色のビショップなの?」

 

 私は周子に背を向けたまま、後ろ手に下着の紐を結んだ。

 なんて窮屈でいびつな体勢だろう。彼女のため息を、羽織ったブラウスの軽やかな生地が吸収していく。

 夜明け前の、濃密な気配が蠢いているのを感じる中で、私は言葉を探す。

 

「――同じ盤の上にいないでしょう?」

 

 指すまでは不思議とわからなくて、指してからすぐに悪い手だと気が付く類の悪手がこの世には有り触れている。

 私の凡百の悪手の歴史に、ひとつ数が増えただけ。

 彼女がひどく傷ついた顔をしているのが、背中でわかった。

 

 *

 

 言えなかった。

 貴女を、厳然たる生と死、勝ちと負けしかない、この同じモノクロームの盤に載せるわけにはいかないんだって。

 言葉を交わしても伝わらないことが多すぎる。

 

 言葉のない世界で相手の意図を汲み取ることに長けているはずの私が、なんてお粗末な――

 指が、離れない。

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 なんだろう、この感覚。

 全身の毛が逆立ったようだった。すぐにわかる。

 

 これは、ステイルメイトを許すムーブだ。

 

 はっとして対戦相手の顔を見つめる。そこには、きっと私もこういう表情をしているのだろう、という驚愕を貼り付けた、当代最強の呼び声高いチェス・プレイヤーの顔があった。

 

 *

 

 あたしは、馴染みのダーツバーに来ていた。

 逢わなければいけない、とわかっているからこそ、顔を合わせづらい夜だってある。

 

 ダーツが空を切る音、直後に少し重たい音が追いかけるようにして響く。

 ……ダメだ。ダメダメだ。今日は、手元がブレてしょうがない。テイクバックの瞬間に、左手に変な力が入り過ぎている気がする。

 そう分析して、いちど深呼吸してからもう一度。今までに投げたダートの数など覚えていない。それくらいに練習した機械的な動きなのに、ちょっとした蟠りすら精確に、手元の狂いとして反映されてしまう。

 腕を引いて、肘から手首へ、しならせて手首からダートへと力を伝える。

『精彩を欠く』とまで酷評された速水奏は、あの夜の後、初めて迎えた公式戦で世界チャンピオン・シキ=イチノセとドローに持ち込んだそうだ。あたしとは、メンタルの出来が違うのだろうか。

 

「――今夜はずいぶん、狙いが狂っていますね」

 

「……プロデューサー」

 

「少し、肩と肱に力が入っているのではないでしょうか」

 

「いけずやなぁ」

 

 あたしの差し出したタングステンダートを受けとり、ボードの前に立つ彼。背が高い彼は、少し下目に構える癖がある。

 綺麗な音と共に、ブルズアイを貫く矢。

 

「……いけずやなぁ」 

 

 こうしてここに来るということは、分かっていると思っていいのだろう。

 今夜は、深酒に付き合って貰おう。

 

 *

 

「1.c4e52.Nc3Nf63.Nf3Nc64.g3d55.cxd5Nxd56.Bg2Nb67.O-OBe78.a3a59.d3O-O10.Be3Be6……」

 

「……奏さん……」

 

「11.Na4Nd512.Bc5Bd613.Rc1h614.Nd2Rc815.Ne4b616.Nxd6cxd617.Bxb6Nxb618.Rxc6Rb819.Nxb6Rxb620.Qc2Qb8……」

 

 この前の大会が終わってから、ずっとこの調子だ。

 日常生活に支障はない……最低限は。自分でものも食べるし、睡眠もとっているようだ。

 ただ、チェスセットを前にするとこの調子、というだけ。

 

「……奏さーん!」

 

「21.Rxb6Qxb622.Rb1Bb323.Qd2Rb824.Rc1Be625.Rc2d526.h4a427.Bf3Qd428.e3Qb629.d4e430.Be2Qb3……?」

 

 奏さんがうつろな目をしながら、うわ言のように繰り返しているのは、速水奏―シキ=イチノセ戦だ。白番をもった奏さんは、公式戦でイチノセを追い詰めるどころか、久しぶりの土をつけそうな勢いだったのだ。ここ最近乗り切れていない印象がぬぐえなかった彼女が、良い感じに試合に没入していた、と私は思っていた。

 結果は誰もが知る所。最後の最後で、奏さんにミスが出て、必勝形だったのにステイルメイトに持ち込まれたのだ。私も、驚きを隠せなかった。

 

「31.Kg2g632.Bd1Kg733.Qc1Qb634.Rd2Bd735.Qc5Qxc536.dxc5Bc637.Kf1Kf638.Ke1Ke539.Rc2Rb540.Kd2d4」

 

「奏さん!!」

 

「……あら、ありすちゃん。今日は早いわね」

 

「……何時だと思ってるんですか。もう夕方ですよ」

 

「あら本当、そういえば制服……学校行ってから来たのね」

 

 自然だ。受け答えが自然すぎるのが、あの鬼気迫るインセインな状態を見た後だと尚更恐ろしい。

 

「……また、あのゲームですか?誰にでもミスはあります。そんなに自分を責めなくても……」

 

「ミスを失くすことは出来なくても、ミスを限りなく少なくするのが私たちの宿命でしょう。あんな大一番で、あれを詰め切れないようでは引退モノだわ」

 

 私にはわからない。こういうときに気分転換として、彼女をチェスセットから引きはがした方が良いのかどうかも、わからない。

 彼女は希代の天才だから。チェスボードの住人だから。まだまだ伸び盛りにあるとはいえ、私は彼女に勝てる日が来るとは思えない。それくらいに彼女の天稟は懸絶している。彼女がチェスボードで受けた傷は、チェスボードの上でしか癒されないのかもしれない。

 だから、こうしてせめて毎日顔を出すようにしているのだ。機嫌が良ければレッスンも付けてくれるし、ちょっと夕食に連れ出して外の空気を吸ってもらうくらいしか、私にできることが無いから。

 

 私が彼女の特別で、もっといろんなことをしてあげられたら、どれほどいいか。

 やっと思惑を選んだ手に乗せることが出来るようになり始めたばかりの私には、それを奏さんに伝える方法がまだわからない。

 

(To be continued……)

 

 

『モノクロームの煉獄』Rd.6 ~aliis si licet, tibi non licet.~

 

第1話 via dolorosa

第2話 casus belli

第3話 suum cuique

第4話 tempus fugit 

第5話 annus mirabilis

 

 

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 世界には変わっていくものだらけなのに、変わらないものがひとつだけあるように思われる。

 少なくとも、私がこの世界に飛び込んだ時からもうすぐ5年の時が経とうとしているが、その間に彼女が王位を明け渡したことは一度として、ない。


 世界チャンピオン・シキ=イチノセは日本生まれのグランドマスターで、今はアメリカに帰化している。チェス・プレイヤーとってももともとそうだったわけではなく、も、彼女はギフテッド教育による飛び級で大学に入学し化学を専攻、学生のうちから幾つも斬新な論文を飛ばしていたのに、チェスにのめりこむあまり大学を中退してしまったという変わり者中の変わり者だ。


 思考をするために生まれてきた、とは誰かが彼女を評した言葉だ。彼女と同じくチェス・プレイヤーであった彼女のダディと、その友人がプレイするチェスを傍で観ているだけでルールを理解し、その3日後にはオッズゲームとはいえ彼女の父親を降し引退を決意させたというエピソードは、あながち作り話ではないだろう。

 

 衝撃的な、敗北だった。

 鍔なりの音の後、斬り結んだ剣士がどちらも立っていることはない。

 無敗同士がぶつかったとしても、その摂理は変わらない。

 この5年間で公式戦無敗の記録を誇るシキ=イチノセと、グランドマスター昇格の前後から無敗で勝ち上ってきた速水奏の一戦は、私の敗北で幕を引いた。

 

 椅子のスプリングを利かせ、勢いよく立ち上がる。脚が当たって、サイドボードに置かれたチェスボードが少し乱れ、脇に退けられていたピースが転がった。

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 *

 

 精彩を欠いた――そう私のチェスを評した新聞があったが、皮肉なことにとても的を射ていると思っている。

 

『22歳になった速水奏。彼女の成績が振るわない……そう、我々に衝撃を齎したあのレイキャビークの一戦で、彼女はチェスの申し子に自分のチェスを粉砕されてしまったのだろうか。シキ・イチノセとの対戦から、どうにも精彩を欠いたプレーをしてはレーティング下位の相手とのマッチもポロポロと星を落とすようになった彼女は、初めてのブランクと対面しているのではないだろうか』

 

 比喩ではなく、欠いてしまったのだ。

 あれほどにドラマティックで、色彩豊かだった私の盤面。今は、ただの石や木や、レジンの塊でしかない。あの魔法の世界を私に見せてくれないのだったら、それはおはじき遊びとなんら変わらないのだ。

 

 負けが負けを呼び込むサイクルがある、とは世界の先輩から聴いていた。

 それに自分が囚われたというのが信じられない。それは他人の身にしか起こり得ない話だと、どこかで思っていたのだ。

 

 込み上げてくる酸っぱい液体が、食道を焼いてセラミックの便器の水たまりに落ちていく。とめどなく流れる涙、酸い匂い。

 ――勝負師として、勝てないことがこんなに辛いとは思わなかった。

 

 地獄なんて生ぬるい。
 この深さで生きていくしかないのだ。殺して、殺して、殺していくのだ。自分以外の人間を。
 だから、苦しくてたまらなくても、助けを乞うことは許されない。殺してきた者たちが許さないし、自分がそれを赦さない。

 カトリックの煉獄は救いがあるかもしれないが、ここは違う。
それをしたならば、地獄にすらいけず、このモノクロームの煉獄に永遠に精神がつなぎとめられると知っている。

 

 芸能界を知らなかった頃。アイドルだった頃。アイドルを辞めた頃。グランドマスターを獲得した頃。
 自分に期待をしてくれた人たちや、自分が踏みつけにしてきた人たち。自分はいつだって、少なからずの人間の希望を糧に生きてきた。だから、結果を残せない私は、生きている価値がないのだ。


 敗北から得られるものなんて、ないのよ。みんな、ホントはそんなことわかっていて、耳当たりのよい虚飾を口にしているのでしょう?
 別の機会に勝って結果を残し、過去の敗戦が意義あるものだったかのように偽っているだけ。そうやって、みんな騙されたふりをしてくれても、自分だけは騙せないのに。


 かつて一緒にステージで歌い踊った、一緒にドラマにも出た同僚にして親友が朝の連続ドラマのヒロインをオーディションで勝ち得た。


 私は?私には何が?
 この国のチェスのレベルはお世辞にも高いといえない。将棋という誇らしい文化とニッチが重複する所為か――チェスを活計の術とするのは想像以上の苦難がある。
 傍から見たら手慰みの遊びと変わらないこれに、人生を掛ける私が勝てなくなったら、私には何が残るのか?

 

 *

 

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 空を切り裂いたダーツがボードに突き刺さり、小気味よい音を響かせる。


「結局、とったん?」


 左利きの周子は、席に座っている私に背中を向けるようにして立っている。それは手洗いで吐いてきたばかりの私にとっても、都合が良かった。店内に客は私たちしかいない。


「何のこと」


「お弟子さんの話。前言ってたじゃーん」

 

 バスン、と空気が揺れる音。肩の高さで周子の左腕が伸ばされている。そのままの格好で、首だけ後ろに傾けて、彼女は私を顧みた。

 

「弟子、なんて大層なものじゃないけれど。この国で若い才能に、私が教えてあげられることってあると思うから」


「奏センセに師事しようなんてその子もお目が高いなぁ。いくつ?」


「次の夏で17歳だって」


 どんなイメージを持たれているのか知らないが、私はアルコールがそんなに得意じゃない。今夜も周子に付き合って馴染のダーツバーに来たはいいものの、一杯目のチャイナ・ブルーに足元を持っていかれそうになって、今は若干熱っぽい首から上をどうにか支えながらシャーリー・テンプルを嘗めているところ。


 バスン。


「名前は?」


「ありす、橘ありすちゃん」


 へぇ、モノクロの不思議の国のアリス、かぁと周子は独り言ちてカウンターに向かっていく。彼女が馴染みの渋いバーテンに二本指を指し出せば、ミニチュア・シュナウザーのような髭を蓄えた寡黙なバーテンダーは心得たと頷き、ボトルを取ってタンブラーに注ぎカウンターを滑らせるように周子に渡す。周子が言うには、左手二本指で「マッカラン18年のダブル」、右手の二本指で「響17年のダブル」のサインなんだとか。


「でもさ、奏ちゃんがプレイヤーとして本格的に挑戦し始めた頃より、遥かに若い才能を育てる環境は良くなってきたんじゃない?」


 そう思わないこともない。周子の洞察はダーツの矢のように的を射ている。そもそも私がアイドルを辞めてチェス・プレイヤーに転身した頃はこの国にはまだグランドマスターのひとりもいない、チェス後進国であったことは確かだ。ロシアやアメリカのように、系統立ててチェスを教えるスクールがなかったどころか、ところどころ間違っている訳書や情報の古い日本語の本で独習するか、ちゃんとした情報を得るために外国語から学び直さないといけないか、という、およそ整えられた環境とはいえないものだった。


 今はチェス教室なども大きな街ならひとつは見かけるようになったし、オンラインをはじめいろんなコンテンツが充実してきた。もともと将棋には指すだけでなく、プロの対局やおやつなど周辺事情まで含めて観戦して楽しむ、という文化があったためか、日本人コンシューマーに的を絞ってそういった企業が本腰を入れれば、サイトのコンテンツはヨーロッパの本家のそれより整備されてしまったというのは皮肉なものだと思わないこともない。


 だが、『育てる人材』が一定数生じたところの背景にあるものは、私を仄暗い心持ちにもさせる。フレデリカが自分の教室を開いてからチェスの公式戦に出るのが減ったように。それは、『プレイヤーとしての自分の限界を突き付けられた者』が、それより多くいる、ということだ。あるゲームが社会に根付き、それをみんながプレイするようになった後、それで一流になれないことを血涙ながらに悟って、それでも夢が諦めきれない者たちが指導者に転身する、というケースは多い。屍の上に立っている、と言ってしまうのはいささか驕傲が過ぎるかもしれないわね。でも、それに近い状態に自分がいることは否めない。罪滅ぼし、というと若干ズレた感じがするが、それに近い社会奉仕の還元として、要はエゴと気まぐれで私は、自分に師事したいと門戸を敲いてきた女子高生を迎え入れたのかもしれない。或いは、理知的であろうとしながら、いつもどこか切羽詰まったような表情をするあの娘に自分を重ねたか――。
 自分を嗤ってやろうと鼻を鳴らして私は、私の知らぬ間に立ち上がり、またダーツボードに向かっている周子に気が付いた。この湧き上がる苦い思いを流し込んで溜飲を下げるには、グレナディーンシロップでは甘すぎる気がして、これ幸いと私は周子の飲みかけの、澄んだ琥珀色を呷ってみた。

 

 自分の消化管が体の中をどう走行しているのか、という興味深い事実を知った後、自分のベッドで寝汗に溺れ頭痛に呻きべたつく口内を持て余すという最悪な目覚めを迎えるまでの記憶が私にはない。

 

 *

 

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 寝ても覚めても、同じ夢を見る。

 同じ夢、そう、同じ盤面の夢。

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 自分は林立する石造りの塔が聳え立つ荒野のような場所にいる。近づいて見上げれば、その塔はひとつひとつがチェスのピースだとわかる。そのひんやりとした石の感触を手で楽しんでいる私はピースを見上げているはずなのに、なぜかもうひとりの自分は空から盤面全体を鳥瞰している――ここで、いつも夢だと気が付くのだ。

 私はこの盤面を知っている。

 そして、現実に指されなかった一手が、白の巨大なルークの石像が轟音と共に私に向かってきて……

 

 そこで目が覚めるのだ。全身に細かく掻いた、嫌な汗と共に。

 

(続く)

『モノクロームの煉獄』Rd.5 ~annus mirabilis~

 

第1話 via dolorosa

第2話 casus belli

第3話 suum cuique

第4話 tempus fugit 

 

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 チェスボードの中で最も大きいピースが倒される、その澄んだ音が張り詰めた船内の空気を躊躇いがちに揺らした。

 誰もが、音の立て方を忘れてしまったようだった。魔女に魔法を掛けられ石像と化してしまったかのように、人々はわが目を疑って溜め息をついた。溜め息はざわめきを、ざわめきはどよめきを呼び、やがてそれはひとつの新しい魁星の誕生を祝う歓声となって太平洋の中心から世界中を目指して毎秒340メートルの速さで地球を駆け巡った。

 

 *

 

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「……せっかく迎えに来てやったのに、辛気臭い顔してるなぁ」

 

 人生で初めて立ち上がった日。人生で初めて言葉を話した日。

 人生で初めて友だちが出来た日。人生で初めて、誰かと永訣した日。

 人の生涯は、何かの初めての積み重ねで出来ている。

 運河に消えていく船を見つめる彼女は、初めての敗戦を喫した少女のような顔をしていた。

 

「久しぶりだな。アナスタシア、あんたのそんな顔――まだ、出来たんだな」

 

 無言で夜の海に消えていく航跡を空中になぞるアナスタシア。その陰鬱な表情が、闇に良く映えた。

 

「別に、負けるのなんて初めてってわけでもないんだから。調子の悪い時ってあるもんだよ」

 

 彼女が敗戦の痛手を悔いていた訳ではないことを、神谷奈緒は知らなかった。

 彼女の心に痼を残したのは、彼女の手を取って優雅に、これ以上ない程に楽しげに踊って見せた、ひとりのプレイヤーだった。

 終わらせたくない、と思ったゲームなんていつ以来だろうか。

 私は、彼女のような表情でもう一度ゲームが出来る日が来るのだろうか。

 

 *

 

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 船上で開かれたチェス・コンテスト。
 私はアナスタシアを降し、グランドマスターへの昇格プロモーションを確定させた。

 

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(貴女がデビューしてから一貫し、黒番でキングズ・ポーン・ゲームにはシシリアンを採用していることは調べさせてもらったわ。やはり、私にもそれを見せてくれるのね――)

 歯車があるべき場所に嵌った、そんな機械的な音が一度した。

 

 その船に乗ることを諾とした世界中のチェス・プレイヤーは、畏怖と栄誉をトランクに詰め込むことを忘れずに各国の桟橋を発って船上の人となった。それは、ダメでもともと、とスーパー・グランドマスターたちにも送られていた招待状に、最後の最後に来た返信のため。10人といないSGMの中でただひとり、ロシアはウラジオストクからアナスタシアがクルーズ船に乗り込んだからだった。彼女と同じ舞台で戦えることだけでも名誉なことだと、プレイヤーたちは色めき立っていた。

 セレモニー兼パーティで、銀糸の髪を靡かせる彼女を再び視界に収めた時、私の指は自ずから震えた。何度も並べた4つのゲームが、ミリ秒の中で何度も頭を駆け巡る。

 

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(フレデリカとした、入念な準備。今の私に出せる最高のパフォーマンスを引き出してくれるガラスの靴よ)

 金属製のピースが澄んだ音を立て響いた。ソプラノは鍔鳴りのように。

 ビショップが力強く頷いたのを見た。すぐさま彼は射線にアナスタシアそのものである黒のキングを収めて立つ。

 

 トップ・プレイヤーの気まぐれ、というものかもしれない。それでも彼女と戦うことを夢見る者たちにとっては願っても叶わない場であり、ある者はシナイ山の頂で敬虔に頭を垂れて教えを賜ったモーセのように、またある者は無謀にもパチンコでゴリアテに立ち向かいジャイアントキリングを妄想したダビデのように、彼女に挑んでは屍を築いた。当然のように勝ち上がる彼女が最終ラウンドで迎えたのは、私――以前、メモリアル・イベントで赤子の手を捻るように潰された速水奏だった。

 

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(貴女が罠を仕掛ける前に、私が仕掛ける――勝機はその一瞬にしか覘かない。そこを掴めなければ、アナスタシアには絶対に勝てない)

 私は何千回も並べた、ネジュメトディノフ・ロッソリモ・アタックを大一番に投入した。


 アナスタシアのチェスは、『機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナ』という言葉を連想させるチェスだ。

 そう評したのは、『イモータル・セブンティーン』の二つ名で知られた前世界チャンピオンだったと思う。その言葉は、実際これ以上ないというほどに的を射ているのだ。どこまでも荒涼としていて、有り得ないような込み入った局面をばっさりと捌いて鮮やかに勝っていく、間違えることを知らないかのような棋風。それは、古代ギリシャの演劇で人の手に負えないほどに錯綜してしまった劇のプロットを、突如として天から降ってきた人知を超えた存在が快刀乱麻に解決する様子を人々に思い起こさせた。

 

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 アナスタシアは絶対に、奇を衒ったりしない。いつだって、セオリーを主人として忠実に仕えている侍女なのだから。

(フィアンケットからキャスリング、まだ予想の範疇だわーー)

 

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 フィアンケットしたビショップの進路は、キングズ・ナイトを起点に塞いだ。代わりにセンター・コントロールを許すことになるが、私の頭は怖ろしい程に冴え切っていた。何もかもが『視える』。彼女の斬り捨てた思考の枝が。彼女が次にやろうとしている手が。それを潰すために指すべき自分の手が。そして――彼女の思惑を超えたところから、超長距離射撃でデウス・エクス・マキナを一撃のもとに葬り去ろうとする魔弾の射手が。

 

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 セミ・オープンになったファイルにルークを配置する。少しでもタクティクスを齧ったことがある者なら子供でも知っているだろう定跡。しかし、奇しくも同じことをやって、しかもアナスタシアに対してやって、負けたフレデリカの棋譜を何度も並べ続けた私にとっては、それは奇妙な偶然に思えた。

 

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 闇が啓けた――この手を指した瞬間を、インタビューで邦人初のグランドマスターとなった速水奏はそう言って振り返った。

 

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 視界全てが鱗粉を撒き散らして生きているように、煌めいて見えた。

 

(さぁ、収束よ)

 

 私はナイトをタダでサクリファイスに召し上げて、劇的極まる勝ち方をする。

 

 アナスタシアが気づいていないこともわかっていた。

 私が勝つ事も、わかっていた。

 

 私には、星の数ほどの手が見えていたのだから。

 

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 クイーンにキングサイドを破られてはお終いと喰いついて反撃の糸口を探してくるアナスタシアは世界中にふたりといない強敵だ。それでも、自分が負けるビジョンが僅かにも見えなかった。信じていたのとも、願っていたのとも違う。そう、あれは。

 わかっていたのよ。

 

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 精確無比なピン。実戦で求められるのは、アマチュアだろうが世界チャンピオンだろうが、常に高い精度の基本なのだと思う。

 彼女が難解なタクティクスを利用して好成績を維持していることは知っていた。知っていたけれどその凄味を私は今宵初めて理解したの。そして、初めて彼女と対戦したエキシビジョンマッチのとき、自分のチェスがどれほど幼く、自分がどれだけ平和な環境に生きていたかを改めて思い知り、眩暈がするようだった。

 

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 最初で最後、アイドル時代に主演を務めた映画で、ナイトに扮するアイドルが高い馬の嘶きと共に吶喊するシーンがあったのを覚えている。

 しかし、それとも比べ物にならない程のリアルが盤上にあった。血を流しこと切れた歩兵の骸、そこに集ってきたオオクロバエが出す147ヘルツの低い羽音。首筋に止まったハエを、ナイトの跨る屈強な栗毛馬が筋肉をぴくぴくと細やかに動かして追い払った。

 

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 一基目のナイトのサクリファイスで吊り出したクイーンに、またナイトをけしかける。何万回も読み直して、読み返して、ヌケがないことを確認した収束。

 

(貴女は、クイーンを一歩だけ引く。そうでしょう?)

 

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 そして私は、すかさず用意していた技を掛けに行った。耳が心臓にでもなったかのように、拍動が私を責め苛んだ。額を伝い落ちた汗が、睫毛を濡らして目に入る。流血が目に入った兵士が沁み入る痛みに顔を顰めるように、私は片眼を強く瞑った。

 

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 デウス・エクス・マキナは降りてこない。私の脚本は、私が幕引きを付けてみせる。

 

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 戦車がゴロゴロと音を立て、キャタピラで戦地の土を食みながら驀進する。終わりの時が近いことだけが確かだった。

 

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 無機質にピースを鳴らす目の前の、尊敬するプレイヤー。彼女が心からこのゲームを楽しんでくれたらいいと、私は心からそう願った。私のチェスが、私だけの手を離れて羽ばたいていくのを感じる。私のチェスは、アナスタシアのものであり、フレデリカのものであり、日本中のファンのものであり、世界中のチェス・プレイヤーのものであり、すべての時空でこのモノクロームの煉獄に罪を洗われた者たちのものなのだ。

 

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 孤独な戦いなのに、二人で行うゲーム。

 誰よりも近くでソビエトの息吹を感じながら、私はあれだけうるさく鳴っていた鼓動が静まり返って行くのを悟った。その瞬間のために、『速水奏』が戻って来る。

 

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 ねえ、見て。私が手綱を離して解き放った駿馬は、こうしてちゃんと私の元へ戻って来てくれたのよ。

 そんな誇らしい気持ちを、私は誰に伝えたかったのだろう。

 

 *

 

 退屈しのぎが退屈になったら、次の新しい面白そうな香りを見つけるべきだと思う。

 そろそろ潮時か、と思っていたから、自分の嗅覚が『初めて』裏切られたのはそれ自体が面白かった。

 

「不治の病というのはいくつかあるが、我々の祖先がエデンを追い出されてこの方、我々を悩ませ続けている不治の病に、気まぐれというものがある。この厄介極まる病気の犠牲者としてチェス・コンテストのクルージングに乗船したアナスタシアは悲劇だった。彼女は気まぐれにも、超新星グランドマスター・ハヤミ=カナデの産声をいち早く聴くため、そして彼女に貴重な一勝を献上するためだけに船に乗り合わせてしまったのだから」

 

 アメリカのとある新聞がそう書き立てたところ、アナスタシアの付き人をしている太眉がチャーミングな女性がカンカンになってその新聞社の今後一切の取材締め出しを宣言したらしい。どこにでもあるような話だが、今のあたしには、それすら愛しく思えてきてならない。

 

「あーあ、こんな面白そうな匂いがするんだったら、あたしもあの船に乗っておけばよかったなァ~」

 

(To Be Continued......)

『モノクロームの煉獄』第4話 解説

 

 最近、少し肌寒い日が続いていて心配していたら、また暖かくなって来たわね。花冷え……っていうのかしら。桜の花綻ぶころになって、思い出したように人肌恋しい寒さを戻してくるなんて、意地の悪い風流もあったものだわ。

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 今夜は私、速水奏が『モノクロームの煉獄』第4話の裏話と解説をお送りするわ。

 

 まず、サブタイトルだけど……『tempus fugit』はラテン語の成句で『時は飛ぶ』とでもなるのかしら。「光陰矢のごとし」に相当するもの、と思ってもらえればいいわね。4回目ともなると、文香の言いたいことが段々わかってきたような気もするけれど……そう思わせておいてもう一度くらい裏切ってくれそうだからあの娘はなかなか、食えないわ。ふふっ。

 

 私は文香と違って脚本の設定に突っ込んだ話も別にできないし、ゲームの紹介を少し丁寧にしようかしら。

 今回使われたゲームは2つ。今回のが前回までと違うのは、対戦中のプレイヤー目線で語られるゲームがない、ということよね。これは主人公の中でゲームの質が変わってきていると同時に、彼女の視点がブレていることのメタファーなのかしら。内容はどちらも相当面白い題材だと思うのだけど、それを惜しみなく道具として消費してしまうのがこの『モノクロームの煉獄』ならでは、よね。実はふたつとも少しラインとしては古いのだけれど、結論が出たわけじゃなくもっと勝率の良い、あるいは期待値の高いラインが登場して指されなくなったものだから、温め直す余地もある、ということで事務所では目下誰かしらがツツいているラインだったりするのよね。加蓮とマキノあたりがまた何か捻り出してくれるんじゃないかって期待だわ。

 1つ目は白番・アナスタシアと黒番・宮本フレデリカの対戦ね。まずは全棋譜を載せるわ。

1. d4 Nf6 2. c4 c5 3. d5 b5 4. cb a6 5. ba d6 6. e4 g6 7. Nc3 Bg7 8. Bb5+ Nbd7 9. Qe2 0-0 10. Nf3 Qa5 

11. Bd2 Bxa6 12. a4 Rfb8 13. Ra3 h6 14. 0-0 Qb6 15. Rfa1 Ne8 16. Rb3 Bxc3 17. Bxa6 Qxb3 18. Bxc3 Nc7 19. Bc4 Qb7 20. a5 Nb5 

21. Bxb5 Qxb5 22. Qe3 Kh7 23. e5 c4 24. ed Qxd5 25. Qxe7 Rd8 26. a6 Nb6 27. Re1 Rxd6 28. Be5 Rad8 29. a7 Na8 30. Bxd6 Rxd6 

31. Ne5 Kg7 32. h4 Ra6 33. h5 gh 34. Re3 h4 35. Qxh4 Re6 36. Qg3+ Kh7 37. Kh2 Rb6 38. Qf4 h5 39. Rg3 Rg6 40. Nxg6 fg 

41. Re3 Qd7 42. Qf6 Qc7+ 43. g3 Qxa7 45. Re7+ 1-0

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(Figure.1.1 : 1. d4 Nf6)

 インディアン・ゲームね。黒が最速で白に選択を迫りに行く、実戦的なラインよね。

 劇中の設定ではアナスタシアがGM宮本フレデリカがIMということで、アナスタシアの方が格上。それなのに彼女が白番なのは、これがグランドマスターの4面指し企画だから、っていうことなのね。

 資料によるとアナスタシアの演じるキャラは実にロシアン・チェス・プレイヤーを反映しているらしいわ。だから1. d4のクイーンズ・ゲームなのかしらね。ロシアン・チェスとモダンプレーは切っても切り離せない関係ですもの、ね。

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(Fig.1.2 : 2. c4 c5)

 ベノニ・ディフェンスだわ。まぁ、この棋譜作ったの私なのだけど。『モノクロームの煉獄』に登場するオリジナルのゲームは事務所の誰かしらが持ち回りで、あるいは大人数でわいわいと盤面を突き合いながら作っているの。

 黒番がe6~d5~c5の流れで白に序盤から対抗する、という話を最近していたでしょう、文香が。

 

 このcポーンを突いてクイーン・サイドから黒が反撃の目を作っていく、というテーマが事務所では最近ホットなのよね。白からそれに対応しようとするあらゆる策の中でも、この2手目c4のベノニ・ディフェンスはスタンダードでしょう?

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(Fig.1.3 : 3. d5 b5)

 ベンコー・ギャンビットよ。ヴォルガ・ギャンビットの名前で知っている方もいるかしら。2. ... c5でぶつけられたポーンから3. d5と白がdポーンを避けた瞬間に間髪入れずに黒からbポーンを突いて白のc4にぶつけに行くの。白番を持ってこのラインを知らなかったとしたら、それはこの世に在りふれるちょっとした悲劇のひとつよね。すぐに黒に調子づかれてしまう。ここから、もっとも独特なラインを紹介するわ。

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(Fig.1.4 : 4. cb)

 ベンコー・ギャンビット・ハーフ・アクセプテッドと呼ばれている形よ。ここで黒の続く手で、黒の意図がわかってくるわ。

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(Fig.1.5 : 4. ... a6 5. ba)

 ベンコー・ギャンビット・フリー・アクセプテッド。フリーはHalfに対応してのFullyよ。ここで白のa6は取られるポーンなので、結局黒はポーンを1つ損した計算よね。ポーン損の代償として、黒はクイーン・サイドにふたつのセミ・オープン・ファイルを速攻で手に入れるでしょう?ここに縦利きのピースを配置して攻めの主導権を握って行こう、というのが黒の作戦なの。

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(Fig.1.6 : 5. ... d6)

 この手、実は今は指されていないのよね。公式戦だと2016年くらいを最後に見た覚えがないわ。現在はg6Bxa6がフィフティ・フィフティくらいかしらね。でもこの進行でもg6やBxa6が指されるんだけれど……次の白のNc3を急ぐか否かとかも含めて、トランスポーズと損得の関係が本ッ当にデリケートなラインなのよ。「そういうもの」としないで善悪を完璧に説明したものってあるのかしら……きっと穂乃香ちゃんがそのうちやってくれる、と期待しておきましょう。私はやらないわよ。

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(Fig.1.7 : 6. e4)

 これはもっと古いわね……この手は10年くらい前に歴史に消えて行ったわ。理由はいろいろあるのだけれど、そうねぇ……一番大きいのはNc3を急ぐのに劣るからよね。

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(Fig.1.8 : 6. ... g6 7. Nc3 Bg7)

 黒はクイーン・サイドにセミ・オープンをふたつ持った状態で、更にフィアンケットを組みキャスリングの目を見せるというバランスのいいゲーム展開を目指しているわ。攪乱された白がどう纏めていくかが見もの――ちょうど、ドラマでスーパー・グランドマスター・アナスタシア初出のゲームとしてはいいでしょう?

 g6~Bg7はセットよね。白の難点としては、a6にポーンが行くまでに手数をかけ過ぎていてピースが立ち遅れているのよ。やってみると見ている以上になかなかバランスとりにくいわ。

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(Fig.1.9 : 8. Bb5+ Nbd7 9. Qe2 0-0 10. Nf3 Qa5)

 このQa5という手は4手目の時点で仕掛けることもできたのよね。やらないけれど。4. ... Qa5+はチェックだから、次の手でクイーンが追い返されてしまうのよね。この手損を嫌うわけ。白の陣展開は絶妙ね。前線に出たピースはほぼすべて、他のピースに守られていて孤立していないでしょう?あたかも網のよう。満を持して10. Nf3でキャスリングも見せて、無理をしない正統派な立ち居振る舞い、といった印象だわ。奇襲チックなベンコー・ギャンビットにもモダン・チェスの棋理に純粋に則って正々堂々相手をする、そんなプレイヤーの姿が見えてくるところだわ。

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(Fig.1.10 : 11. Bd2 Bxa6 12. a4)

 この受け方が巧妙だったわ。そしてa4にもナイトが利いているのよね。

 Bxa6を入れるタイミングを完全に逸してしまった、これが結論なのかしらね……高い技術を持つ者同士の戦いは些細なミスですべてが決まる、ということだわ。チェックで入ってきたBb5に、a3を取り込むBxa3をぶつける。Qa5はその為の布石だったのだけど、a4一発でゲームのイニシアティヴが白の手に転がり込んだ感じ。迂闊にビショップ交換に黒から踏み込めなくなってしまった。この先、a~cファイルのピースの白の連結はひとつの芸術作品が作られる過程のような……って、これ私が作ったゲームなんだけど(2回目)。

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(Fig.1.11 : 12. ... Rfb8 13. Ra3 h6 14. 0-0 Qb6 15. Rfa1)

 13手目のルーク浮きが細かい手。そしてこれを可能にしているのが先ほどの12. a4ということで、手の流れがきわめて自然よね。一つ目のルークを第3ランクに浮き、14. 0-0~15. Rfa1でルークをaファイルに持ってきたということは、次にやりたいことも自然に見えて来るじゃない?対して、駒組みが飽和してきた黒はフィアンケットしたビショップのダイアゴナルを塞いでいるナイトをNe8と引いてから、abファイルを堅牢なものにしているナイトとエクスチェンジを狙っていきたいところ。

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(Fig1.12 : 15. ... Ne8 16. Rb3 Bxc3 17. Bxa6)

 この見切り!この見切りを見て欲しいのよ!

 ……取り乱したわ。先ほどからの流れでbファイルにルークを据えたと思ったら、ここでルークをクイーンに当てて、相手に取らせるの。このテクニックが本当に冴え冴えとしていて素敵なのよ。黒がBxa3と速攻で取り込んでこないのを見た時に、瞬時にこの狙いを作って駒組みするのはなかなかの技量よね。相当な基礎の上になせる業だわ。それもドラマのようにある国のTOP4を相手取る多面指しという場で出るのは、これは凄まじさをうかがわせるに充分。実戦で指されたたった1手、しかしその1手をその場で捻り出す為にどれ程の時間が費やされたかということに思いを馳せるようになると、先人たちの凄味が現実味を増してくるように思われる――さて、主人公・速水奏はいったいどのような思いでこの棋譜を並べていたのかしら。そして、彼女に芽生え彼女の心に突き刺さった感情の欠片が今後、どのように本編に係わって来るのか……見物ね。

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(Fig.1.13 : 17. ... Qxb3 18. Bxc3)

 ここで逆手をとるように白のビショップがロング・ダイアゴナルに乗って相手のキングを睨むのだけど。黒としては15手目でNe8と引いた流れでNc7と使いたいわね。

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(Fig.1.14 : 18. ... Nc7 19. Bc4 Qb7 20. a5 Nb5 21. Bxb5 Qxb5 22. Qe3 Kh7 23. e5 c4 24. ed Qxd5 25. Qxe7)

 千丈の堤も蟻穴から……とうとう黒陣に風穴があいたわ。この手がNd7を脅かす先手になっているのも味が良いわね。後は圧倒的な寄せでじわじわと、しかし最速で白が勝つわ。基本に忠実に、されど大胆に……。

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(Fig.1.15 : 45. Re7+ 1-0)

 

 次は、白番・チャン=ミオ(演・本田未央)と黒番・速水奏の対戦ね。主人公の回想、ということで黒番が手前になるようにボードがフリッピングされているのよね。このゲームはオリジナルではなくて、1875年のMacDonnell, George Alcock vs. Bird, Henry Edward戦よ。こちらはオリジナルでないこともあって、あまり言うことが無いのだけれど……。

1. e4 e5 2. f4 ef 3. Nf3 g5 4. h4 g4 5. Ne5 h5 6. Bc4 Nh6 7. d4 d6 8. Nd3 f3 9. g3 f5 10. Nc3 fe 

11. Nxe4 Nf5 12. Kf2 Be7 13. Nf4 Rh7 14. Ng6 d5 15. Nxe7 de 16. Nd5 Be6 17. Bg5 Bxd5 18. Bxd8 e3+ 19. Kg1 Bxc4 20. Bg5 f2+ 

21. Kh2 e2 22. Qd2 f1=N+ 23. Rhxf1 ef=N+ 24. Rxf1 Bxf1 25. Qe1+ Ne7 26. Qxf1 Nbc6 27. d5 Rf7 28. Qc4 Ne5 29. Qxc7 Nf3+ 30. Kg2 Rc8 

31. Qa5 Rxc2+ 32. Kf1 Nxg5+ 33. Ke1 Nf3+ 34. Kd1 Rd2+ 35. Kc1 Nxd5 36. a3 Rc7+ 37. Kb1 Nc3+ 38. bc Re7 0-1

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 (Fig.2.1 : 1. e4 e5 2. f4 ef 3. Nf3 g5 4. h4 g4 5. Ne5 h5)

 キングズ・ギャンビット・アクセプテッドのキーゼリッキー・ロングウィップ・ディフェンスと呼ばれる形ね。これもおっそろしく黒から動いていくタイプのディフェンスだわ。

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(Fig.2.2 : 6. Bc4 Nh6 7. d4 d6 8. Nd3 f3 9. g3)

 9. g3の流行りは15年くらい前かしらね……そもそもこちらも最近はあまり見なくて、二年前にはここでgfだったわ。

 なんといってもこのゲームは連続でナイトにプロモーションする、という芸術的な収束が見物よね。

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(Fig.2.3 : 38. ... Re7 0-1)

 さてさて、今夜はどのような物語が紡がれていくのかしら。本編もお見逃しなく、速水奏でした。

 

(続く)

『モノクロームの煉獄』Rd.4 ~tempus fugit~

第1話 via dolorosa

第2話 casus belli

第3話 suum cuique

 

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 私が何度も並べ直しているのは、先日行われた日本選手権のエキシビジョンマッチのゲーム。世界選手権への派遣のキップを手にしたベスト4の選手と、とあるSGM――スーパー・グランドマスターの多面指しの4ゲームの中のひとつだ。

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 自分が赤子の手をひねるように敗けたのは納得も行くし、口にはしないが言い訳だって思い浮かぶ。だけど、ふたつのことに傷ついた。

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 一つ目が、私が苦戦の末に惜敗を喫した相手を瞬殺した世界レベル、その壁の高さを目の当たりにしたこと。


 もうひとつは、そもそも世界選手権で当たるかもしれない日本代表選手との多面指し企画とは、自分たちなど眼中にないと暗に言いに来たようなものだ、と気が付いたこと。

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 記念対局が決まってからは彼女の過去のゲームを漁って付け焼刃なりの対策をした。
 そして、記念対局が終わってからは彼女の人となりが知りたくて、彼女についての言及があるものは読めるだけ読み漁った。

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 彼女――ロシアのGM・アナスタシアは、当代最強のチェス・プレイヤーのひとりだということは間違いない。親日家としても知られ、たびたび日本でのイベントに参加してくれている。それもそのはず、彼女は日本とロシアのハーフ。


 では、なぜ彼女は日本ではなく拠点をロシアにしたのか。それは彼女が要件を満たし晴れてグランドマスターとなったときの、英語のインタビュー記事に書いてあった。


 曰く、『自分が初めてのグランドマスターになれる、という以外に日本でチェスをやるメリットが見当たらない』と。それだけ選手を支える環境が劣悪だというようにも取れるし、ライバルが見当たらないようにブラッシュアップが見込めない、というようにも聞こえる。まぁ、彼女の『おこぼれ』に与って……初めてのグランドマスターになった者すら依然いないので、言わせっ放しが悔しかろうと口を閉ざさせることはできないのだけど。

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 もう指がムーブを憶えてしまった、記念対局の4ゲーム、その中の宮本フレデリカ―アナスタシア戦を何度も並べているのは、彼女と私とでは、同じものを見ているようで、見えている景色が違うと思ったからだ。冴え冴えとした手の流れ、大胆不敵な構想、緻密な終盤の速度計算――どれをとっても一級品で、だから、私には信じられない。

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 先シーズンの世界選手権を勝ち上ったアナスタシアは、世界選手権者、つまり現チャンピオンに挑み、11連敗を喫してたったの11ゲームで防衛を許したのだ。上を見れば方図がない、とは言うものの、魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界というのは本当に広いのだと呆然とする思いだった。

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 私に今、最も必要なものは、自分の立っている場所の正確な把握と、目指すべき峻険たる頂との精確な距離感。


 楽しいだけの世界がある、なんてメルヘンチックな感傷は事務所のマグカップの中に置いてきた。これが、才能の確証とやらと引き換えに背負うべき宿業。

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 *

 

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 速水奏という名が世間を騒がせない日がない、そんな状態がもう半年近くも続いている。


 あたしはネットニュースを流し読みして、ほうっと息を吐いた。あたしが仕向けたわけじゃない、けれどあたしの言葉は少なからず彼女の背中を押してしまったはずだから……。

 

 あの後いくつかの日本国内のチェス競技会に出て、チェスの才能と実力を知らしめた7月1日生まれ、蟹座の奏ちゃんは、18歳の自分の誕生日に開かれたミニコンサートで電撃引退を発表した。メガヒット映画の主演も務めたこの国民的アイドルの引退にふれて、ワイドショーはしばらく奏ちゃんが引退を発表した挨拶のシーンを延々流していたし、どの局もラジオをつければ『Hotel Moonside』が流れていた。


『自分の見つけた夢に傾注するため』という、なんだか曖昧な理由に戸惑ったファンのことを思うと同じアイドルとしては少し申し訳なくなるくらいの、引退を惜しむ声やったね。


 そして、そろそろ『奏ショック』も下火になってきたかと思った頃、彼女はまたしても紙面を賑わせた。


 奏ちゃんがチェスの日本選手権で勝ち得た日本代表選手という枠。世界選手権への派遣がメインだけれど、その前哨戦として行われるいくつかの世界大会にも出場できる資格だったみたいで。引退してひと月半後に開かれたアジア選手権で奏ちゃんは、このところ連覇していた中国のGM・チャン=ミオをあっさり破って優勝した。レーティングの急激な上昇に、ノームと呼ばれる、タイトルを与える条件が付いてこない状態だとか。場数を踏めばIMは堅い、いや、ゆくゆくは日本人初の、それもガールズ(20歳以下の女子)プレイヤーでのグランドマスター達成なるか、とまで言われているらしい。大きいコンテストでない、イベントみたいな対局でも追っかけが付く始末で、元・国民的アイドルは今やチェス界のアイドルとして奔走している。


 あたしは、奏ちゃんが引退した後もいっしょに映画見てご飯食べたり、ショッピングしたりしてるんだけど、同じ事務所でもショックだった子も結構いたみたい。奏ちゃんが後悔しなければ、あたしはそれ以上に尊重されるべきものってないと思うんやけどねー。それにしてもびっくりの転身。彼女は、仕事優先の選択をしたあたしとも違って、ちゃんと受験生もこなしているみたいだから、今はそっとしておく時期やなーって、せつろしいなぁ。春になったらまた出かけたいし、何よりレイキャビークに連れて行ってもらうって約束してるからね。

 

 彼女は彼女の仕事をすればいい。あたしはあたしの仕事をするから。

 おっ、来た来た。シューコちゃんを待たせるなんて、プロデューサーも罪な男だねぇ。

 

「こっちこっち。お腹、すいたーん」

 

 *

 

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 激戦の余韻とともに、私は彼女の、人を視線で噛み砕こうとするかの表情を思い出す。

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 亜龍湾に降り注ぐ太陽。それが私の、彼女と手合わせしたイメージ。目映いばかりの陽光は、地面に落とす影も色濃い。

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 投了間際の、チャン・ミオ。彼女は自分の唇を咬み切ろうかそのままにしておこうか、思案しているような顔だった。

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 彼女の脳内には、どんな思いが渦巻いていたのだろう。

 負けた後、付き人の大きな、目の鋭い男に涙ながらに怒鳴り散らす彼女の姿を目にした私は、少なからずのショックを受けたわ。

 ぽっと出のCMに負けた屈辱?緩い手を指した自分への嚇怒?

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 勝者の情け、というほどに綺麗なものではない。見てはいけないものを見た、という細やかな後悔と、あんな姿を私なら見られたくない、という聊かの憐憫が私に踵を返させただけのこと。そうして、やや重い足取りで休憩ブースに佇む私の横にそっと立って、フェイフェイ、という名のIMが私に言った。彼女のフェデレーションは、ミオと同じ中国だ。

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 前日も私を探し、初対面も構わず笑いかけ手を握り、肩を抱いてくれた気さくな彼女は少しだけ眉根を寄せ、困ったような笑顔を作って私に言った。

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「ミオが『チェスを辞める』って泣き喚くのは、彼女が敗けると必ずやることなんダヨー。だから、ひとつのルーティーンとしてすら中国のチェス・ファンは受け止めているノネ。中国の、っていうのはつまりチャン・ミオの、って意味ダヨ。それだけの思いで彼女がチェスに打ち込んでいることを知っているからナノネ。そして、彼女のゲームにそれだけ私たちは生きるエネルギーをもらっているからナノネ」

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 とんとん拍子に、いくつかの僥倖に恵まれてここまで来た。だけれども、私は何もわかっていないどころか、入口にすら、立たせてもらえていなかったのだ、と知った。そのことが、自分でも信じられないくらいに自分を打ちのめした。物見遊山の気分が抜けていなかった私が、ショックの中に死んでいく。

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 誰かの、見知らぬ大勢の人生すら背負って闘いの日々に身を置き、神経を擦り減らし続けている等身大の同年代の姿が、その涙と瞑られた目と腫れた手が、私に何かを迫り続けている。

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 盤上に咲き乱れた向日葵の花、その畑を一歩一歩進むようにして罠を仕掛けて歩く自分の姿。

 椅子がひとつ、ティアラもひとつ。ボードゲームの勝敗を超えた、殺し合いがそこにはあった。

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 自分はあの対戦相手の夢を刈り取ったどころか、彼女に夢を託していた幾千万の人々のそれをも摘んでしまった。その意味を、私は正しく理解していただろうか。

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 教室で同じ時間を過ごす学友たちの探した未来。

 舞台で同じ時間を分け合った同僚たちの求めた夢。

 人生を賭けてみよう、そう思ったことに悔いはない。だけれども、椅子の数が限られた椅子取りゲームに、自分が参加して分母を増やす意味というものを、私は本当に知ってなどいなかったのだ。

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 帰りの飛行機でも私は、閊えたものを探し続けていた。
 フライトで映画を観なかったのは、初めてのことだったと、空港で迎えてくれた周子の顔を見て気が付いた。

 

(To Be Continued...)

『モノクロームの煉獄』第3話 解説

 

 春分とは、昼と夜の長さが同じになる、といわれますが……実際は私たちの国ではまだ昼の方が少しだけ長いのです。こんばんは、今夜もお付き合いください……『モノクロームの煉獄』第3話の解説をしていきたいと思います。

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 恒例となりました、サブタイトルの紹介ですが……『suum cuique』は「各人に各人のものを」という意味です。転じまして、各人にはそれぞれが応分に持つべきものを与える、そんな風に今日では解釈されていますね。それぞれが持つべきものとは何なのか、それは劇中の奏さんが高校三年生という過渡期に感じる戸惑いとも根深い、永遠の命題ではないでしょうか。

 

 煉獄、という言葉は少しずつ織り交ぜられていましたが、しっかりと触れられたのは今回が初めてでした。神の徒・クラリスさんの口から語られる煉獄とは、先行する言葉のイメージとは異なり、『浄化』の場であり、聖性を付加するための試練である、というもの……その説明を聴き、迷いを払拭し何かを決意した様子の奏さん、これからも目が離せない展開が続きそうです。

 クラリスさんといえば、彼女の科白に登場する「アビラの聖女テレサ」について少しの解説を……

 聖女テレサはチェスが盛んな時代に、「完徳の道」という神の教えを説く著述の中で美しくも的確なチェスの喩えを用いたことで知られ、今でもクリスチャンのチェス・プレイヤーの中で語り継がれている、チェスの守護聖人です。彼女の教えについては気になりましたら調べて戴ければ、と存じます。本も出ておりますので……

 

完徳の道

完徳の道

 


 作中のゲームを解説して行きましょう。

 今回の舞台設定は、チェス・コンテストの準決勝でした。才能と運を味方に、初出場でここまで勝ち上り存在感を示したアイドル・速水奏が白番を持ち、黒をもって迎え撃ったのは現状日本一のプレイヤーとして名高い宮本フレデリカ。奏が主役を演じた映画でチェスの考証についたフレデリカは、映画で使われ奏にとっても印象深い『セント・ジョージ・ディフェンス』で彼女と対戦します……

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(Figure.1 : 1. e4 a6)

 IMのMichael Basmanはこのオープニングに「このオープニングの理論はすでに大半が整備された」と述べていますが、研究が無い状態で相手にすると狙いどころがわかりにくく戸惑う戦型だと思います……このオープニングに限らず、早い段階でaファイルやhファイルのポーンを突くことを好むプレイヤーはアマ・プロ問わず少なくないのですが、それはフィアンケットや中央に跳ね出すナイトと相性がよく、また序盤に相手のビショップが急所に出てくる手を予め潰しているというメリットがあるからでしょうか。デメリットはご想像の通り、相手に自在にセンターを張ることを赦してしまうところです。

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(Fig.2 : 2. Nf3 e6 3. d4 d5 4. e5 c5)

 e6~d5~c5の流れは黒番でまま見られる、とは前回の解説でも触れさせていただきました……

 フレンチ・ディフェンス型のセント・ジョージ・ディフェンスではe6を起点にこうやって組むのが洗練されていますね。

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(Fig.3 : 5. Bd3)

 これは捻った印象の手ですね。キャスリングを急ぐ意味ですが、自然に5. Nxd4 Ne7として+/-という局面ですので、僅かに黒が指しやすくなった感触があります……

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(Fig.4 :  5. ... cd 6. a3 Nc6 7. 0-0 Bc5 8. b4 Ba7)

 Bb6と引く方がやや勝ったか、というところですね。というのは、Na7~Nb5の繰り替えが可能か否か、というところで、それをとがめだてされなければあまり変わりはありません。a3~b4の形はBb2とフィアンケットを組む形と非常に相性が良いのですが、これを見越してd4にナイトとビショップふたつのピースの利きを重ねているあたりが、『過剰防衛』の印象を劇中の奏に植え付けたのでしょうか。

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(Fig.5 : 9. Bf4 Bd7 10. Re1 Nge7 11. Nbd2 h6 12. h4 0-0 13. Nb3)

 11手目ではBg5とピンされるのを嫌ってh6を突く手に代え、Ng6やRc8、はたまたQc7という手も黒からはあり、そのどれもがh6よりは勝るという局面でした。実はここでは奏が思うよりも差が縮まっていたのですね……。

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(Fig.6 : 13. ... Rc8 14. Qd2 Ng6 15. Bxh6)

 ここの白は適切な手だけを指しています。この対局から伺えることは、奏には経験からくる技術が乏しく、フレデリカは臆病な受けの棋風であるあまり、手にしたアドバンテージをみすみす詰められてしまう嫌いがあって国際大会で苦戦を強いられている――という背景でした。ラフながら、奏には彼女の棋風として完成されるべき資質がある……そんな棋譜が目指されています。主人公のチェスがどのように洗練を獲得していくのか、その辺りも見どころですね。

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(Fig.7 : 15. Nxh4)

 実はこれは黒から捻り返した、というよりある意味仕方が無かった手、といえるでしょう。なぜなら……

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(Fig.8 : 16. Nxh4)

 手の流れからは自然に見えますが、このエクスチェンジに乗ってしまうのは白の早計でした。代えてNh2/Bg5で+/-、そしてQf4とすると天秤の針は僅かに白に傾き出したと思われます……以下は16. ... Nxf3+ 17. gf f5 18. Qg3 Qe7が一例でしょうか。

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(Fig.9 : 16. ... Qxh4 17. Bg5 Qh5 18. g3 f6 19. ef e5)

 Nc6の庇護を受け、d4~e5のチェーンの固いこと……伸びやかさは奏の指し回しに軍配が上がりますが、果たして。

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(Fig.10 : 20. Bh4 gf 21. Bf1)

 これも仕方ない手、です。簡単に土俵を割らないとはいえ、受けるためだけに攻撃ピースを引かされるのは見ていて辛いところですね。

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(Fig.11 :  21. ... Ne7 22. Qe2)

 絶好の位置に据えられたクイーンに、白からクイーン・エクスチェンジを打診します。他に差す手がない、という状況ですが、Bg4が見えているだけにこれも辛抱の手です。そして、これはおそらく、実らない類の辛抱……

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(Fig.12 : 22. ... Bg4)

 ここでQd2と手を戻すと、1手パスした計算になるのでいよいよ白は苦しいですね……

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(Fig.12 : 23. Qd2 Ng6 24. Bg2)

 Bxd5+を狙いながら、キングの退路を作る手です。この手に対して考えられる限りもっとも残酷な手がこの後白を襲いましたね。

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(Fig.13 : 24. ... Nxh4 25. gh Rf7)

 苦境の中でようやく希望が見えてきた……そんな局面では、指したいと思う手が実際の評価よりもよく見えてしまいがちです。そして、それがルークをピンするというような場合、「相手の読み落としか?!」と訝ってしまいながらも、降って湧いた好機と飛び付く……あると思います。こういう手が無情にも弾かれるほど、心が折られる展開もないのですが……

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(Fig.14 : 26. Bxd5)

 将棋もそうだと伺いますが、ある程度以上になると顔を合わせる相手というのは固定されてきます。なので、相手を脅威を認めるからこそ、徹底的に叩いておきたい――そんな一流プレイヤー・フレデリカの心境の変化がここ数手から見て取れます。

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(Fig.15 : 26. ... Bf3)

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(Fig.16 : 27. Bxf3 Qxf3 28. Kh2 Rh7)

 ここで浮いたルークがしっかりと詰みに利いてくる、これほど堪える展開もなかなかないでしょう……

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(Fig.17 : 29. Rg1+ Kf7 30. Qg5

 決死の延命措置ですね。とっくに投了しても良い場面で、投げきれない彼女の葛藤とそれを受け止める先輩プレイヤーの懐を見ます。

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(Fig.18 : 30. ... fg 31. Rg2 Rch8 32. Kg1 Rxh4 33. Kf1 Rh1+)

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(Fig.19 : 34. Rg1 Rxg1+ 35. Kxg1 Rh1#)

 最後は紛れる余地のないメイトでした。全体の棋譜は、

1. e4 a6 2. Nf3 e6 3. d4 d5 4. e5 c5 5. Bd3 cxd4

6. a3 Nc6 7. 0-0 Bc5 8. b4 Ba7 9. Bf4 Bd7 10. Re1 Nge7

11. Nbd2 h6 12. h4 0-0 13. Nb3 Rc8 14. Qd2 Ng6 15. Bxh6 Nxh4

16. Nxh4 Qxh4 17. Bg5 Qh5 18. g3 f6 19. ef e5 20. Bh4 gf

21. Bf1 Ne7 22. Qe2 Bg4 23. Qd2 Ng6 24. Bg2 Nxh4 25. gh Rf7

26. Bxd5 Bf3 27. Bxf3 Qxf3 28. Kh2 Rh7 29. Rg1+ Kf7 30. Qg5 fg

31. Rg2 Rch8 32. Kg1 Rxh4 33. Kf1 Rh1+ 34. Rg1 Rxg1+ 35. Kxg1 Rh1#

となってます。

 

 各人に、各人のものを――

 奏が、フレデリカが、それぞれに意識の変革を迎えた第3話でした。速水奏が担当プロデューサーに持ちかけた相談の内容とは如何に……今夜もお付き合い頂きまして、ありがとうございました。鷺沢文香でした。

 

(続く)

『モノクロームの煉獄』Rd.3 ~Suum cuique~

 

第1話 via dolorosa

第2話 casus belli 

 

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 進級してから、空気が少しだけ変わった。それは必ずしも、希望に満ちた未来を見つめるきらきらとした命の輝きだけではないことに、私は最早気が付いている。

 能動的に未来を攫もうと足掻く雰囲気が充満している教室を、見るともなく見まわしてみた。就職するのか、受験をするのか。受験をするなら大学を受けるのか、専門学校を目指すのか。大学を受けるなら、学びたい学問を希求しに行くのか、それとも就職に有利なように少しでもランクや聞こえのいいところを目指すのか……


 この世には二種類の人間しかいないのだ。高校三年生である私たちと、その他の世界。ナーバスになる私たちを勇気づけようとする先人が言うように、大局的に見れば、ここでの選択は人生を左右するほどのものではないかもしれない。でも、確実にその後の人生に影響を与える。何らかの形で、善悪は問わず。

 事務所の同僚にして、机を並べる学友である美嘉は寸暇を惜しんで受験勉強をしている。彼女はそういう娘だ。それも、なんのかんのと先延ばしにしてきたみんなが真面目に向き合おうとするよりずっと早くから、シビアに将来を見つめて堅実な設計を志していた。10代の綺麗盛りにちょっと持て囃されたくらいで生きていけるほど人生は短くない、とは、とあるカリスマJKの言。
 私はまだ決めかねている。まだ、まだ。

 

 *

 

 案外、温い空気なのね。


 初めて参加したチェス・コンテストは、これなら模試の会場の方がまだ緊迫感がある、そんな感じで正直なところ拍子抜けした。大学生くらいの年齢層と、おじさんといっていいくらいの人たちが見たところ多い。それがよく言えば和気藹々とした、悪く言えばおよそ勝ち負けを賭けているとは思えない馴れ合いの雰囲気を醸し出す。まるで大学のサークルや碁会所のような、生ぬるい空気だ。
 もちろん、世界大会に派遣される日本代表選手の選考会を兼ねた国内最大のコンテストということで意気込んで来ているプレイヤーも少なからずいるのだろうが、ここは未だグランドマスターのひとりもいない国。高が知れている、ということなのかしらね。


「か・な・で、チャーン!」


 聴き慣れた声、コツコツとヒールの鳴る音、放り投げられるかわいそうなハンドバッグ、衝撃。私は、印象的なフリージアマグノリアの香りとともに、シャンゼリゼ通りよりも広い微笑みを湛えたフレちゃんに抱き締められる。LAZY SUSANのアントニアズ・フラワーズ・オードパルファンだ。母親がパリ近郊の生まれという彼女は、パルファンを綺麗なパリ発音で『パッファン』という。

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「来てくれたんだ、ホントに来てくれたんだー♪」


「行くって、ラインしたじゃない」


「え?……アタシ、日本の機械よくわかんなくてー♪」


 今日は楽しんでいってね、と手を振って駆けていくフレデリカを呆然のうちに見送る。顔が広い彼女は色んな人に声を掛け、また声を掛けられては忙しそうに動き回っていた。
 いくつかの部門があったが、申し込んだのは一番上のクラスだったらしい。フレデリカに「申し込みのときにレーティングを聞かれるから、そしたらアタシにこのクラスに参加するよう言われた、って伝えて」と言われていたのでその通りにしたら、受付のおじいさんには胡乱な目で見られた。その後、テーブルまで案内してくれたお姉さんにはサインをねだられた。

 

 今日の私はツイているのかも。
 私は装甲空母ではないから、処女航海とはいえ、何もできないで沈むわけにはいかないとは思っていた。だけど――
 コンテストも佳境。私たちの座るテーブルの周りには人だかりがあった。最初は速水奏が来ている、というだけで物珍し気に見に来ていた人たちの目の色が変わっている。こうなることをわかっていたかのようにニヤニヤと私と卓を挟んで笑っているのは、前回優勝のIM・宮本フレデリカだった。


 ベスト8戦まで勝ち進んだところで、対戦相手に急病が出た。不戦の追い風も手伝って、あれよあれよという間に私は準決勝まで来てしまった。


「奏ちゃん、やっぱりチェスが抜群に向いてるみたい」


 チェスクロックをいじりながらフレちゃんが言う。


「正直なところ、私も驚いているわ……」


「フレちゃんは、わかってたよ。雰囲気に飲まれないで、実力が出せれば奏ちゃんは相当いいところまで行くって。まして、アイドルで女優さん。パフォーマンスに緊張を引きずらないようにするのも慣れてるだろうし」


 周りの雑音がすっと引いていくような気がしたのは、フレちゃんの真っ直ぐな目に射竦められたように思ったから。私は、今までチェスセットを挟んで向き合った誰とも違う、硬質で濃厚な気配を真顔のフレデリカに感じた。

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(セント・ジョージ・ディフェンスだ……!)

 

 フレデリカは、私をあの映画で私がやった、いわば私のチェス人生の原点ともいえるディフェンスで邀撃することに決めていたらしい。さぁ、どうだといわんばかりに微笑んでこちらを見つめる碧眼を見据えてから、私はナイトに指を掛けた。確かに、馬の嘶きが私の耳には聞こえた。

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(正直、セント・ジョージ・ディフェンスの狙いどころがいまいちわかっていない……でも!)

 

 私の思うように指してみよう、と思った。運に恵まれ、勝ち星争いに本気のフレデリカの胸を借りることができるこの大舞台で、縮こまったような指し方はしたくない。

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 b4を突きだすと、フレデリカは間髪入れずにビショップを引けるだけ引いた。感想戦ではBb6の方が勝ったかもしれない、と言っていたが、その微差をどうにかして咎める術を、私はまだ持っていないと打ちのめされた。

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 間合いをとるような、フレデリカ独特のテイスト。すぐにキャスリングをせず、慎重に駒組みを続ける目前の相手は、正直やりにくいと思った。すべてを受け止めるようでいて、彼女はいつだって相手の攻撃に怯えている、そんな印象を受けた。守りが堅いのではなくて、過剰防衛に近いなにか――

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 フレデリカの長い指が操るナイトが、Bf4に当たってきたとき、頭の中で閃いた。

 

(ここで、Bxh6だ。一見して危険な手、でもきっと盤上最善……!)

 

 フレデリカ=キングに肉薄する魔弾を放った。彼女が築いてきた堅固な城壁に破城槌が刺さったのを観た。

 ギャラリーの溜め息やどよめきが聴こえた。その中でひとり、この未来を予期していたといわんばかりに、フレデリカが口元だけで笑った。

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 捻り出した手が、あと少しだけ届かない――

 私はこの手に唇をかみしめた瞬間に、下手の横好き、趣味の延長としてではなく、チェスを自己実現の術としている者として生まれ変わったのだと思う。

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 国境線沿いに築かれた中央の城壁が堅い。やりたい手はすべて指すことができているのに、受け止めて跳ね返す日本チャンピオンの懐は深かった。でも、簡単に盤は割れない。それこそ、詰められ万に一つの希望が奪われるまで、戦ってみたい。私の血がそう叫んでいた。

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 感想戦でフレデリカが最も誉めてくれたのは、意外にも苦し紛れのこの手だった。曰く、「悪くなったと思うところで、辛抱の手をじっと指せるのは資質」なのだという。彼女の目に映っていた私が、いつの間にか趣味人でなくなっていることに複雑な思いを抱いた。

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 最後に一矢報いようという、露骨な手。だからどう、というわけでもない、Bxd5+を狙うだけの手。記念にチェックを掛けに行くようなものだ。気分は陰惨だった。

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(え……?)

 

 フレデリカの読み落としか、と思った。Bxd5がルークをピンしてしまう。降って湧いたチャンスのように、この時は思った。希望を与えてからそれすら奪う手が、心を折るほどに思い一撃であることを、私はまだ知らなかった。

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 直後に、溺れながらに掴んだ藁、だと思ったものが実は鮫のひれであったことを知った。

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 揚々と相手のルークを破壊しようとして、死が見えた。

 刹那に頭の中が白い閃光で塗り替えられていくようで、私は悄然とした手で今、喉元にナイフを突き立てる相手のビショップを盤から下ろした。

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 後は淡々としたもので、大差を間違えてくれるほどフレデリカは甘くなかった。的確に戦車が整列し、私の陣を焦土にしていく。

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 最も生き永らえる術を計算して、クイーンを犠牲に延命措置を施した。ぐずぐずと、投げられない思いを引き摺るばかりで、詰みまでやりたい、というような最初の威勢はもはやQxf3の一手で粉砕されてしまった。

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 私は瞼を少しだけ痙攣させながら、ルークを引いた。

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「――負けました」

 

 初出場でベスト4は快挙だ、と人々は口々に褒めそやしてくれた。アイドルに話しかけるチャンス、とお世辞を言っていた人もいるだろうけれど、観ていた私のゲームの内容にまで突っ込んだ称賛をくれる人もいて、それは舞台上で演技を褒められるのとはまた違うくすぐったい感触だった。


 けれども、その嬉しさを手放しに噛み締められないのは、それだけフレデリカに負けたのが悔しかったから。カフェでおしゃべりをしながらの遊びなんか目じゃない、自分はこれで生きているんだという彼女の気魄籠ったゲーム。私にチェスを教えてくれた人という以上に、私は同じくチェスをプレイする者として、彼女に勝ちたいと願って、頭を捻り、汗を流し、くらくらするような熱気の中で、彼女に負けた。自分の成果が好成績だというのもわかる。褒められるのも嬉しい。話しかけてくれる人に笑顔で対応するのも慣れたものだ。だけど、きっと部屋にひとりだったら、落ち込む。しばらくは膝を抱えて、動く気力が体のどこからもなくなってしまったかのように項垂れながら、泣いたら立て続けに何かに負けてしまうような気分に浸りつつ、落ち込むだろう。複雑な思いだった。幾重にもこんがらがった感情の糸の中に、ぞくぞくするほどの快感を味わったことも、私をまた惑わせていたことは、私以外に誰も知らない。

 

 *

 

 戦場の中で自分の延長が燃え落ちて往くあの情景。それはまさしくレジナルド・スコットの提唱した『カルタグラ』――たしかに煉獄に違いない。


 あの苦しみの中で活路を見出す、額に脂汗浮く感覚を知ってしまえば、蠅が止まるほどゆっくりと流れていく日常はどこか色彩を欠いてすら見える。あの白鍵と黒鍵が織り紡いでいく複雑な音階が支配する世界で生きていくことは、私の覚悟と想像を超えて苛酷で孤独で、陰惨な選択なのだろう。そうとわかっていても、自分の頭脳をを追い込めるところまで追い込んで新しい手を生み出そうとする創造的な営為の、どこかマゾヒスティックな喜びに目覚めてしまったから――

 私はカフェ・スペースで台本に目を通す彼女を見つけ、呼び掛けた。

 

クラリスさんは、シスター、修道女ってことは……カトリック教会なのよね?」


「そう、ですね。もっとも、修道制度は必ずしもカトリックだけでなく、正教会や古流にもありますが……」

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「そうなんだ、私、てっきり修道女はカトリック、って思ってたわ」


「ふふ、そう捉えている方も、多いでしょうね」

 

 柔らかい雰囲気、というだけでない。何を相談しても、無粋で下世話な好奇心で話を洩らしたりしない、そんな厳かな雰囲気を併せ持っているから、彼女は神の徒として人の話を聴き遂げることに長けているのだ、と金糸の髪を見ながら得心した。彼女は促す。


「それで、今日は?」


「ありがとう、この前は。相談に乗ってもらって」


「私は何もしていませんよ。お話を聞かせてもらっただけです」

 

 私は以前にもこうして、彼女の包容力に甘えたことがある。そのときも、取り留めのない私の話を適切な相槌を挟んで聴き、話すうちに考えが私の中で纏まって行くように導いてくれた。


「今日は聞きたいことと、伝えたいことがあって」


「はて。私にお答えできることなら、よいのですが……」


「ねぇ、クラリスさん。『煉獄』って、どんなところ?」


 虚を突かれたような顔をするクラリスさん。


「なるほど、それで先ほど私にカトリックか、と問うたのですね」


「えぇ、まぁ」

 

 表情が読み取れないほどに静かな顔つきで、糸のような優し気な目を開いて、彼女は私を覗き込むように見た。


「『自分の内なる、神と異質なものを清めるための場所』です」


「清める……」


「天国に赴き、主の喜びに預かるため聖性を得る場所、ということもできるでしょう」


 すっと脳の温度が下がった気がした。


「ありがとう。私、決めたの。あのね――」

 

 優しく私の右手を、両手で包み込むクラリスさん。


「私も神の下僕。皆まで言わずとも、そのお顔を観れば、分かりますよ。私は、貴女がどこにいようと、貴女のために祈ります――」

 

 彼女の手は、信じられない程に柔らかく、ひんやりとしていて心地よかった。

 

「貴女に主と、アビラの聖女テレサの守護がありますように」

 

 

「プロデューサーさん、聞いてもらいたい話があるの」


「速水さん」


 私は、プロデューサーが書類仕事をひと段落させ、コーヒーか何かを淹れに立ち上がりシンクへ向かうところを呼び止めた。


「少し、いいかしら」


「――私の席で、待っていてください。すぐ戻ります」


 そういうと彼は、自分のマグカップではなく、逆さに掛けられていた新しいカップを手に取り、中を覗いてから濯ぎだした。私はそれに視線を投げかけてから、言われた通りに、彼の席で待つことにした。


「お待たせしました」


 数分で席に戻ってきた彼は、それぞれの手に湯気立ち上るマグカップを手にしていた。私の前に差し出されたのは、彼が濯いでいたあの白いカップ。


「ありがとう……」


「千川さんはお帰りになったので、そちらに掛けてください」


 大きな掌に指し示された、彼の隣のデスク。私は頷き、その椅子を引き、可愛らしいフリルがあしらわれたクッションを上げて腰を下ろしかけ、下がった目線で彼の机の上にあるものに気が付いた。


「あ、あら?それは――」


「あぁ、取材許可の際にゲラを見せてはいただいてたのですが、見かけたもので、つい。改めて、このたびはおめでとうございます」


 悪戯でも見つかったみたいに、困ったような顔で首に手を当てるプロデューサー。彼の机の上にあったのは、雑誌のアーティクルを丁寧に切り抜いたものだった。映っているのは、私。スカウトの声を掛けて警察を呼ばれたことがあるほどに強面な彼が、ちまちまと鋏でスクラップを作っているのを想像して、頬筋とともに少しだけ緊張がほぐれた。


「それで、お話がある、というのは……」


「えぇ、そのことなのだけれど――」

 

(To Be Continued...)